The Art of Benching(アート・オブ・ベンチング)シリーズ シャウド2

The Art of Benching(アート・オブ・ベンチング)シリーズ シャウド2

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アート・オブ・ベンチングシリーズ
シャウド 2 – ジェフリー・ホップによるアダマス・サンジェルマン
のチャネリング
クリムゾンサークルへ献呈
2021年11月6日
http://www.crimsoncircle.com/

私は私である全て、何人にも侵され得ない存在、アダマスです。

シャーンブラのみなさん、ハウス・オブ・シャーンブラにようこそ。シャーンブラの場所によくやって来てくれましたね。そのことはあなたが今どこにいても、私がどこにいようとも関係ありません。私たちはハウス・オブ・シャーンブラにいるのです。

エネルギーの全て、全部の全部がこの場所に、シャーンブラに、あなたに、そしてあなたの旅にフォーカスされています。意識は全てここにあります。私たちの全員がここ、新たなシャウドのためにここにいます。ふむ。

あなたが今どこにいたとしても、あなたがどんな人であっても、あなたがたった今、何をしていたとしても、あなたは然るべくしてここにいます。これはあなたがした選択です。その選択に間違いはありませんでした。仮にあなたがこのハウスの裏側にいて、ドアの隙間からこのハウス・オブ・シャーンブラの中をこっそり覗き見ているのだとしても、あなたはここにいるべくしているのです。

これは既に選択された何かなのです。エネルギーのコードに刻まれた何かなのです。あなたがここにいるのはそういうことです。コードとは、あなたがどうここにたどり着くかの仔細までを記述したものではありません。コードで記述されているのは単に「私はここに行くことになる」ということだけなのです。カウルドゥラがここにいて、私からのメッセージをもたらしているのは、起こるべくして起こっていることなのです。イーサのリンダがここにいて彼の隣にいるのは、起こるべくして起こっていることです。クリムゾンサークルのチーム、スタッフがここにいて、そのスタッフがシャーンブラにサービスを提供していることもまたそうで、あなたがここにいることは、何がどうあっても、全く驚くに足らないことなのです。起こるべくして起こっています。これは間違いであるはずがないのです。単なる偶然でもありません。あなたが、自分はその周辺をうろつきつつ、たまに覗いて見ているだけだ、そう思っていたとしても、全くそうではありません。これはコードがそう記述されているからであり、そう設計されているからであり、あなたがここにいる理由だから、そうなのです。

今、私たちにはやるべきことがあります。やるべき非常に明確なことがあるのです。前にも言いましたね。あなたはリアライゼーションのためだけにここにいるのではないと。リアライゼーションに至るというのは折込み済みの話です。私がリアライゼーションにさほどフォーカスしないのはそういうわけです。リマインダーとして言っておきますが、そうであるのだから、ただ大きく深呼吸をして、それを受け入れてください。どうしたってリアライゼーションに至るのは避けられないのです。ちなみに、私たちは今、この惑星にシャーンブラと呼ばれるグループとして、美しいチームを組んで、ここにいますが、シャーンブラというのは実際の存在として確立されています。魂を持った存在ではありませんが、存在としているのです。あなたが、私たちが何年も何年もかけてやってきた全てから出来たものです。いずれにせよ、あなたがここにいるべくしているのです。

私は、みなさんがしばしば「自分は何をしているべきなのかが分からない。どうしてこんなところにいるのか分からない。この目的は何なんだろう? 情熱を注げるような仕事に就けていないのは何故だろう? 多くのことに情熱を注げないのはどうしてだろう? 他の人たちと一緒にいて、そんなに面白いと思わないのは何故だろう? 自分が漂流船であるように感じるのはどうしてだろう?」そう思ったり、言ったりしているのを耳にします。そう思うのは、あなたがここへ至るに、結構待ったというだけの話です。社会が今に至るのを長い間待ったのです。集合意識が、それを形成する人々がやる物事、機械の時代に至ること、惑星に新しい種の人間 ―新しい身体、新しいマインド、新しい意識、新しい考え方が出てくる、その今を待っていたから、そうだったのです。

あなたはそのためにここにいます。あなたはそうすることを選択していたのです。私たちがあなたを(アダマス、笑う)無理やりベッドから引きずり下ろして連れてきたわけではありませんよ。あなたがこの時代のここにいると、選んだのです。もちろん、マインドが時に行ったり来たりすることは分かっています。マインドは迷ったり、考え込んだり、疑ったり、疑問を投げかけたりします。それはそれで結構です。それがマインドのやってきたことです。そして私たちは、それを変え始められるかもしれません。

それはそれとして、今は、そのことを、これがあなたの選択であることを感じてください。これがあなたの ―ある意味、こう言えますかね― 魂の宿命、運命だと。はい、あなたはいつだってそれを捨てることはできました。そうしたシャーンブラもいますよね。彼らは去り、そしてその中には、まだ戻ってきていない人たちもいます。これが単なるレッスンの類ではないことに気付いた多くの人たちは戻ってきました。ここでやっているのは、何かの教えではありません。私たちで行う全てを逃さず視聴しなければならないとか、全てのワークショップ、シャウド、クラウドクラス、そのの全てに参加しなけれならない、そういったことではありません。これは、マスターとして今の惑星にいるという、共通した絆、繋がりがあってのことなのです。何か必要に迫られた人間としてではなく、満たされない人間としてでもなく、マスターとして、ここにいるということです。あなたがそのことを分かっていようと、いまいとも、あなたはマスターです。まだ依然として、部分的に疑っていたり、そういう疑いのゲームをしているかもしれませんが、実際にあなたはマスターなのです。本当にそうです。そうでなければ、あなたはここにいなかったでしょうし、私もここに現れてはいませんでした。

そのことを少し感じてください。あなたがこの時のここに戻ることを選んだ理由、あなたがこの時にここにいる、そう選んだ理由を感じてください。あなたをここへと導いた道、その道のりを感じてください。それは時に、とても険しい道のりでした。ただ、そのおかげでたくさんのストーリーを得られましたね。あなたにはたくさんのストーリーがあるはずです。

あなたをここに導いた魂の運命、その全体を感じてください。それは、私たちでこの惑星を変えよう、なんていう話ではありません。私たちがするのは、他の誰かを変えようとすることではありません。そんなことをする必要がありません。そんなことをするつもりもありません。ええ、思いやるということを真に定義するなら、その全てのあるがままを受け入れてあげる、ということです。他者の何もかもを、あなたが、自らが選んだことをするのを許すように、彼らがやると選んだことを尊重するということです。それは時に勇気が要るし、時に悲しく、気が滅入ったり、苦痛を伴うこともあるでしょう。そうでない時は、それは美しく、喜びに満ちたものでしょう。いずれにせよ、あなたは何をするかを自分のために選択していて、であるからこそ、我々は、他の人がそうするのも許すのです。それが、思いやりを真に真に表すものです。

私たちには、ここには、読んでおくべき神聖なる言葉が全て記されてますよ、そう人々に宣伝しながら、配って回るような本であったり、その手のものはありません。私たちはシンプルに、ベンチに腰掛け、自身が輝き、その光を放射するためにここにいるのです。そうするのは、人々にはまだ見えていない可能性がたくさんあるからです。人々はかなり制限された現実の中で、非常に抑制された状態で生きています。彼らにはまだそれらの可能性が見えていません。しかし、分かりますね、光が放たれ、そのあなたの光が世界中を照らした時には、人々にはその可能性が見えるのです。それでどうするかは彼ら次第です。それを選ぶのか、選ばないのか、それはどうでもいいことです。私たちは公園のベンチに腰掛けて、私であればバーカウンターのストールで、コーヒーを、私なら淹れたての上等なコーヒーを楽しむだけです。

と言ったところで、大きく、深呼吸をしましょう。

気持ちは上がりましたか? ギアが上がりましたか? リンダが、火を付けられた、というふうな話をしているのをちょこちょこ耳にしますよ? ワークショップやクラスの後、シャウド、クラウドクラスでも、最近のいろいろなもので、耳にしますね。みんな、火が付いた、強烈だった、最近のペースは途轍もなく速い、そう言っています。そうですね、間違いなくそうですね。私たちはこのペースに付いて行っています ―少し、頭一つぐらいは前に出ていますかね― 人類の進むペースからは、ですね。人類は今、様々な意味で、どんどんと薪を焚べられている状況です。それは時に、混沌や混乱として、完全にメチャクチャな状態として目に映ります。しかし、本当はそうではありません。本当に、本当に、違います。それはただの変化です。それは、量子的な速度で全てが変化する際に起こることが起こっているだけのことです。人々は単にそのことを理解するのに、そのことに納得するのに、苦労しているだけだということです。その変化が彼らのマインドを吹き飛ばしています。人々は単純に理解できないのです。それを言葉に落とし込むことができないのです。それは、過去にあった何かに関連付けて参照するためのクオリアが彼らには無いということだけではなく、変化のスピードが単に馬鹿みたいに速いせいで、混乱するしかないということです。

不正に関して声高に叫んでいる人々が世界中にいます。そして確実に、世界には多くの、間違いなく多くの不正、不公平、そしていろいろな意味での分断、持てる者、持たざる者、持ちたい者、持ちたくない者の隔たりがあり、それは続いていくでしょう。が、肝心なのは、このメチャクチャな状況の全て、この流れの全ては、目的に仕えているということです。本当にそうです。

そして、あなたには何が出来ますか? ええ、あなたには大きく深呼吸をして、ついにここまでやって来たんだ、そう認識することが可能です。それが自分の功績であることを認めてください。あなたはやり切ったのです。あなたは「私はこの今にあって、何をやっているべきなんだろう?」などと言いますが、何もありません。あなたはあなたがやっているべきだった全てをやり終えたのです。あなたは全部やったのです。その証として自分のホームページにそう載せることだって出来ますよ。あなたはあながやるべきだったことを全部やって、そして今はここにいて、現在惑星にいる他のアセンデッドマスターたちと一緒になって、人生を楽しみ、自身を光り輝かせる、そういう時に入ったのです。これまでやっていないことを、自分のためにやってあげてください。大胆不敵にそうしてください。殻をぶち破ってください。自分のために、これまでやらなかったことをやってあげてください。あなたは「分かったよ。でも、自分は惑星のためにここで光を放射しているべきだよね」そう言います。ええそうです。でも、その放射が起こるのは、あなたがあなたのためにいろいろやってあげてのことなのです。あなたが人生をエンジョイしている時にそうなります。あなたがあなた自身の苦しみに終止符を打った結果としてそれは起こるのです。

いずれにせよ、あなたはあなた自身の選択としてここにいるということです。あなたは他の志を同じくする人とたちとともにいます。結びつきの強いコミュニティーとしてでも、コミューン、あるいはワンネス、そういった形ではなく、それとなく一緒にいます。あなたは知り合いとして、仲間付き合い、友達付き合いとして、古くからの友人*として、一緒にいます。古くからのと言いましたが、古い古い、アトランティスぐらい古くからの、ヨシュアの時代ぐらい、聖書の時代、ミステリースクール時代ぐらい古くからの付き合い、という意味です。あなたは古くからの友人たちとここにいるのです。その時が来たということです。あなたには、ここにあって外野でゆったりと腰を下ろしてコーヒーを、ワインを、何でもいいですが、飲んでいられる権利があるのです。あなたはもう、何かをやっていなくてもいいのです。あなたはやっているべきことを全部やりました。今は単に、ここにいることだけが全てなのです。

*チャネルの前に流された“Old Friends”を参照しての話

少し時間を取ってもらえますかね? このシャウドに突入していくにあたって、今話したことを受け入れてください。認めてください。あなたはやっているべきこと、やるべきことを全て終えて、ここに到着したのです。 今は自分自身の神秘を味わう時です。ええ、あなたはここからも、エネルギーが自分に仕えるというのがどういうものかを、もっともっと学び、もっともっと経験していくことになるでしょう。

この機械の時代で、そのためにここに来たという正にそのこと、光のスイッチをオンにすること、自身はそれをやっているマスターであるということをシンプルに受け入れることが出来ますか? 多くの言葉は要りません。ただ光のスイッチをオンにして、快適に腰掛けて、眺めている、観察している、それだけのことです。「こうしていよう」あなたがそうしていようと思っていたことで唯一出来るのは、観察ですね。今は壁のこちら側に腰掛けて、状況を観察するには素晴らしい時です。見ていて驚くべきことばかりです。

今日も最後には、ベンチングのミラーブを行いますが、それって単なるベンチングです。とても簡単です。そのためにトレーニングする必要はありません。ベンチングのために学校へ通う必要もありません。ただベンチに座っているだけの話です。お尻をベンチ、あるいは椅子の上に載せて、何でもいいですが好きな飲み物、食べ物を携えて、何度か大きく深呼吸をする。そうしたいなら音楽をかけて、座っているだけのことです。つまり、あなたの光で外の世界を照らすだけのことです。とても簡単ですよね。そうして後は、起こることを眺めていればいいのです。

この世界で何が起こるか、この後すぐ、そうですね、このハウス・オブ・シャーンブラで私たちがベンチングのミラーブをやってから比較的短いうちに、何が起こるかを観察してください。何が起こるか、2週間、2週間後ぐらいに何が起こるか見ていてください。それはもっと早く起こるかもしれませんし、それより後かもしれません。「まあ、いずれにせよ何かは起こるだろう」そう言えます。ええ、あなたはそれを目にし始めます。リアルな変化を目の当たりにします。大きなシフトが見られます。そして毎月、私たちがミラーブを、公園のベンチに座ることを行うたびに、その後で世界に何が起こるか、そのパターンに気付くようになるでしょう。

もう1度言っておきますが、私たちは世界を変えようとしているのではありません。世界を変えるというのは、遊びでやるにはなかなかタフなゲームです。何故なら、そんなことをすれば世界の側から飛びかかってくるからです。仮にあなたが「私はあなた方を変えようと思う」そう言ったなら、周囲の世界は「いざ勝負! 君は私たちを変えようとする。なら私たちは君を変えようとする。試合開始だ。さてさて、どちらが勝つか見ものだね」そう反応するでしょう。やれやれ。私たちはそんなことはやっていません。私たちは単純に、気に入った公園のベンチに腰掛けて、好きな飲み物を楽しんでいるだけです。一部の人には申し訳ないと思います ―場所によっては、このベンチングシリーズの開始が冬の始まりにあたっていますからね。その場合は、いくらか余分に着込むか、あるいはカフェか、そうしたいなら、自宅でそれをしてください。ま、時には家から出たほうが良いと思いますので、カフェでするのがいいですかね。車の中でベンチングでもいいですね。何かしら暖房を付けて。ま、いずれにせよ、今はただただ光り輝いて、観察している時なのです。何をするにしても、惑星で何が起こっているかは見ていてください。もしかしたら私たちが、あるシャウドで通った跡を追ってくる人が出てくるかもしれません。

では、大きく深呼吸をしましょう。

あなたは目的があってここにいます。世間的に重要視されるような仕事をしたり、世界を変えたり、自分のアイデンティティを大きく築き上げるためにここにいるのではありません。あなたはシンプルにマスターとしてここにいます。それ自体、そこへどう至ったかだけでなく、そのこと自体、ストーリーとしてとても良いものですね。「私はたった今のこの世界に、マスターであるためにやってきた。ほら、これがマスターだよ」

大きく深呼吸をしましょう。

気分は上がりましたか? 間違いなくそうですね。全てに火が入りましたね。そしてリンダもまた ―とても素敵に見えるよ。

リンダ:まあ、ありがとう。

アダマス:私はどうかな?

リンダ:いつだってハンサムよ。

アダマス:ありがとう。この手のハワイのシャツには、なかなか慣れることができないけど、まあ、そのうちに慣れるかな。

リンダ:とても楽よ。

アダマス:楽か。マーク・トウェインも、この手の服は着なかったよ。

リンダ:まあ。

アダマス:着なかった。いつもネクタイしていたよ。いつもね。

いずれにせよ、リンダ、君はここ最近のシャウド、イベント、ワークショップを全て見てきたわけだけど、途轍もなく速く進んだね。ただ、君を圧倒するほどの速さではなかったね。

リンダ:なかったわ。

アダマス:影響は受けたと思うけど、Masters in Communication のワークショップの後にはどういう影響が出たかな?

リンダ:あれは ―視野が拡大されて、視座が高くなったわね。あなたはそれを続けていて、それってあなたは、、、

アダマス:私がそれなりの支払いを求めるのはそういうことだよ。

リンダ:まったくそうね! だから ―分かるかしら、この話はいったいどこへ向かうんだろう? ずっとそう思わされているわね。で、蓋を開けてみたら、もっとあらゆる方向へ進んでるわけ!

アダマス:もっとあらゆる方向だね。でも「やれやれ、また同じ話だ。10年間全く変わらないや」みたいなものだと、幻滅しやしないかい?

リンダ:私はもうここにいなかったでしょうね。

アダマス:ここにはいなかっただろうと。なるほど。ただ、そうだね、点火させられるようなものじゃないとね。つい最近やったばかりの強烈なセッションの後はそうなるね。美しいセッションだったよ。

リンダ:素晴らしかったわ。

アダマス:時には身体にも、特に影響が出るものだよ。何故なら、身体について、物理的な身体、そしてライトボディについても話しているからね。君もそのことに気付くだろう。時には、君がそうだね、疲労困憊と呼ぶような状態にもなり得るね。そしてそれというのは単に、君が少し横になって眠るか、リラックスして、常に何かをやっているということをストップする必要があるということだよ。

リンダ:私がヘトヘトにへばったってことを認めるように要求しているわけね、、、

アダマス:私は何の要求もしていないよ(リンダ、笑う)。私は示唆しているだけだよ。

リンダ:(笑っている)ええ、私はヘトヘトで、へばってたわ!

アダマス:あー、君はヘトヘトにへばっていて、それは Masters in Communication に参加した他の多くの人たちもそうだったんだ。影響は出るものだよ。だからしばしプールサイドにただ座っているとか、ベッドで横になっているのがいいね。ただ、いつものベッドで横になるのは、そこまでオススメできない。そのベッドにはそういうエネルギーが刻まれているからね。それは、変化や調整、意識の引き上げというよりは、眠りにより特化されているんだよ。

リンダ:シーツの下には入らなかったわ。だから、、、

アダマス:あー、外と中は全く別の世界だよ。

リンダ:ええ、そうね。ええ、全然違うわ。

アダマス:なるほど。うん、そうだね。

リンダ:完全にね。全くよ(アダマス、笑う)。

アダマス:いずれにせよ、間違いなく、様々なことに火が入れられたと。彼らは速く速く進んでいて、ただ、、、

リンダ:クールにね。

アダマス:思うに、火も何も付かず、何も進まず、私たちがスタックしていたら、死ぬほど退屈だっただろうね。

リンダ:大して意味のないものだったでしょうね。

アダマス:上手く機能はしなかっただろうね。オーケー。

A Story(ストーリー)

ええと、シャウドを始めるとしましょう。ちょっとしたストーリーから始めたいと思います。これはずっとずっと昔の話です。ジョゼッペという、非常に素晴らしい才能を持った彫刻家の話です。ジョゼッペの物語です。

ジョゼッペは青銅での彫刻を愛していました。青銅とは無論、銅とスズを合わせたもので、青銅は、大理石などの石と比べて、比較的扱いやすいとされています。いずれにせよ、ジョゼッペはどんな対象であっても、造ることを楽しんでいました。彼は、ミニチュアの銅像を造るところから始めて、それは徐々に徐々に大きく大きくなっていきました。彼は等身大の銅像をいくつも手掛け、彼は最も偉大な彫刻家として広く知られる存在となりました。

そんなある日、彼は言いました。「最高傑作を造ろうと思う。素晴らしい神の銅像を造りたいんだ。神の銅像だよ」と。そしてもちろん、当時は、誰しもが神を、年齢を重ねた男性と関連付けて考えていました。彼は銅像のデザインを考えました。高さ5メールにもなるものです。それは、歴史上、誰も造ろうとさえしなかった高さの銅像でした。彼は神をデザインすることに多くの時間を費やしました。それは男性のような姿をしていて、分かりますね、その感覚はそのころから今でもあまり変わっていません。人々は依然として、神を大きな爺さんのように考えています。いずれにせよ、彼はその美しい作品を、あらゆる細部まで手を抜くことなく、ほとんど取り憑かれたように、取り組みました。彼の弟子たちが、些細なミスや失敗をすることも見逃しはしませんでした。彼はそれを、時を超えて神への畏敬を表し続けられるものにしたかったのです。神は常にあることを人々に見せたかったのかもしれません。神は天の上のどこかにいるだけではなく、銅像としてこの地球上にもいるということを。

そうして、溶けた青銅を型に流し込む日がやってきました。分かりますか、型です。リンダ、君も金属加工をやったことがあるね。その日が来て、彼らは大きな桶で混ぜ合わせ、大きな桶にいっぱいの溶けた青銅を作りました。熱い熱い高炉があって、そこに液体状の青銅があるわけです。それは火によって泡立ち、型の最初の部分に流し込む準備が整ったのです。

その段にあって、ジョゼッペは、全てに関して細かいところまで慎重で、溶けた青銅が均一でムラの無い状態であるかを常に常に確認しようとしていました。全てがあるべき温度で、全てが正しく、演出的な効果のための正しい色味であることを把握しておきたかったのです。彼はずっと見ていました。熱されて流れ出す青銅が入った大釜の近くにいた彼は、彼は ―(リンダ、息を呑む)― 中を覗き込んで、覗き込んで、そうして一線を超えたのです。

リンダ:わあ!

アダマス:ジョゼッペは溶けた青銅の桶に転落しました。

みなさんはこれが話の終わりだと思っていることと思いますが、しかし、もちろん、違います。違います。終わりではありません。これはアダマスの語るストーリーです。話はここからも続きます。

彼の身体は、熱く溶けた青銅に触れた瞬間、溶けました。燃えることはなく、身体はただ溶けて、青銅の中で即座に結晶化したのです。身体はそれ自体を結晶化させたのです。あなたは、ええ、可哀想なジョゼッペは、分かりますか、ベイクド・ジョゼッペか、ジョゼッペ・フライになったと考えたことと思いますが、面白いことに、彼はそうはなりませんでした。彼は溶けた青銅の中にいて、自分自身を感じることが出来ていました。彼には自分の声が聞こえていました。彼は周りのことに気付いていました。彼の皮膚は熱によって焼かれてはいませんでした。彼には皮膚などなかったのです。全ては結晶化されていたのです。彼は経験の中にいました。神になるはずだったドロドロの液体の中、その中にいたのです。

ええ、弟子たちは忙しく、彼らにはジョゼッペが落ちたことに気付けるような暇はありませんでした。彼らにはやることがたくさんありました。ジョゼッペが彼らに対して事前に、それがどうジャストのタイミングで取り出さされ、どう処置されるべきかなど、多くの指示を与えていたからです。彼らはジョゼッペがどこにいたかは気にすることなく ―抜け出してトイレに行ったぐらいには思っていたかもしれませんが― 青銅を型に流し込みました。そしてもう片方の型へも流し込んで、それらを合わせて閉じました。さあ、そうしてジョゼッペは自分のデザインした銅像の中に閉じ込められたわけです。

青銅が冷え、型から取り外してみると、それは、素晴らしく美しい、称賛すべき巨大な神の銅像で、それは鋳造物としてのその見かけ以上に、リアルな生命が宿っているかのようでした。それは巨大で、力強く、その威厳、そこに宿る力は疑いようの無いものでした。

ええ、弟子たちは銅像の最後の仕上げに大忙しでした。継ぎ目の荒い部分を整えたり、あちこちに微修正を加えていました。誰もジョゼッペがどこにいるのかを尋ねるほど暇ではなかったのです。銅像の最終調整は、軍隊によって村の広場に運ばれて、そこに建てられた台座の上に固定されるまでに、数日間かかりました。その間、ジョゼッペは銅像の中に、文字どおり銅像に溶け込んでいました。彼には自身の声が聞こえました。彼は自分のことを感じていました。彼には外の人たちが話す声も聞こえていて、不思議に思っていました。「どうして誰も『ジョゼッペ氏はどこに行ったんだろう? ジョゼッペ氏はどこだ?』と言い出さないのだろう?」と。まあ、彼は街でよく知られた女好きだったため、弟子たちは、彼は若い女の子たちとどこかへ繰り出して、戻ってくることはないだろう、そう考えていたことでしょう。いずれにせよ、この美しい銅像を仕上げるのは彼らの仕事で、彼らはそれをしたまでなのです。

で、村を見渡し、村の人々に視線を注ぐその神の銅像の中には、閉じ込められたジョゼッペがいて、彼は外に出ることが出来ません。彼は叫んで助けを求めようとしましたが、その声は誰にも聞こえません。彼は無理やり外に出ようともしましたが、青銅は強固で、そうすることは不可能でした。何もできそうにありません。彼は心配になりました。「どうなる? このジョセッペはどうなるんだ?」

人々がジョセッペのことを忘れるのに、そう長くはかかりませんでした。繰り返しになりますが、人々は、彼は誰かと、あるいは何かのために、村を出ていったのだと考えていました。村の人々は、ジョセッペが見て、聞いて、感じて、理解していることなど知るよしもなく、毎日、神の銅像のもとを訪れ、それを称えていました。

そうしてその神の銅像を称える世代が1つ過ぎ、もう1つ過ぎました。その時には、人々が遠方からこの作品を見にやってくるようになっていましたが、実際にそれを作成した芸術家が誰であったかについては、すぐに忘れら去られてしまいました。それは神そのものでした。やがて、その銅像はある日突然に現れたもので、且つ、奇妙な特徴を備えているという噂が国中に広まりました。それは青銅ではあるものの、時に本当に生きているとしか思えないことがある、というような話です。中には、夜になると少し光を放つと主張する人もいました。銅像から声が聞こえた、そう訴える人もまたいました。

世代から次の世代へと、人々はこの神の銅像の保全を行いました。ジョセッペはその全て期間、人々のことを眺めながら、自分が銅像から出られることはあるのだろうか、と考えていました。

彼は、彼自体が銅像となってしばらくの時点で、銅像と深く結びついていました。それは、もはや、本当のジョセッペではありませんでした。そこにいたのは銅像でした。彼は彼が誰であったかを忘れていました。彼は自分の名前もある時点で忘れました。彼はただただ銅像であり、来る日も来る日もそこに立ち、人々から称賛を受け、崇拝されていたのです。

そこからさらに多くの世代を経ると、銅像に劣化が見られ始めました ―風雨、嵐、特に鳩ですね。徐々に徐々に、ジョゼッペによって造り出された神の銅像は、どんどんと劣化するようになりました。そこにはもう、最初の100年ほどそうであったような、魅力はなくなっていました。それはどんどんと古く、また汚くなっていきました。国中から来ていた人々はもう、その影も形も見えません。村の人々ももう、崇拝したり、答えを求めて祈ったりするために、そこにやって来ることはなくなりました。銅像は、完全に忘れ去られたものとなったのです。その周囲は立木に覆われ、樹木の枝葉によって覆いかぶされるようになり、ジョゼッペを閉じ込めたまま、銅像は忘れ去られました。

そして1,000年かもう少し経った後のある日、ほぼ完全に忘れ去られたまま村に立ち続けていた神の銅像にもとに、大きな嵐がやって来ました。地平線の向こうから現れたそれは、巨大なトルネードで、それは村へと至り、ジョゼッペの造った神の銅像目掛けて、真っ直ぐと進みました。その時の銅像は完全にくたびれ果てていて、穴ぼこだらけで、細かな部分は剥がれ落ち、中が見えていて、何の価値も無いものでした。それはただただ色褪せて、何の面白みもない銅像でしたが、トルネードは真っ直ぐとそこに向かい、それを地面へとぶち倒し、何千もの破片になるまでに砕きました。

その時、その激震によってジョゼッペは目を覚ましました。1,000年を超える期間、自分の造った彫刻に閉じ込められていた彼は、それで目を覚ましたのです。その目覚めに際して、彼は依然として、自分が誰であったのかは本当には理解していませんでした。しかし、彼には自分が長い長い間、彫刻の中に閉じ込められていたことは分かっていました。目覚めの中にある彼には、ほとんど恐怖とさえ言ってよい感覚がありました。「私は誰だ? 私はもうこの銅像ではない。神の銅像ではないんだ。なら私は誰なんだ? 私は自由だ。自由だけど、自由とはどういうことだ? 私はこの自由を得て、何をすればいいんだ? 私はもう銅像に閉じ込められてはいない。銅像はもうバラバラだ。破片がそこかしこに散らばっている。で、私は誰だ? 私には私というアイデンティティがなくなっている」

ジョゼッペはそこで内なる声を耳にしました。それはこう言っていました。「まあ、君が神ってことだね。ハッハ! 君は銅像としてその役割を1,000年以上務めて、今そこから出て、今度はそれとして生きるんだ。君は神だよ」と。ジョゼッペはこう返しました。「まあ、私には他に選択肢が無いからね。自分が誰だったかを忘れてしまったんだ。アイデンティティの感覚が全くないよ。銅像に閉じ込められていたせいで、自分が誰だったかを忘れたよ。とりあえず外に出るしかないだろう。自由たって、その意味も分からない。私は私が自由であることは分かっているが、はて、それはどういう意味なんだろう?」

ジョゼッペは、クツミと同じように、ただ歩き始めました。彼は経験することを始めました。そうしていると、徐々に、徐々に、ジョゼッペであることの記憶は戻ってきました。また、後からそれは過去生のものであったと分かることになる、そういった記憶も戻ってきました。少しずつ、少しずつ、彼には、彼が彼自身を彼はジョゼッペであり有名な彫刻家である、という、アイデンティティの中に閉じ込めていたということが分かり始めました。彼は自分をそういったきつく閉ざされたアイデンティティの中に閉じ込めていたのです。彼は自分が自由であり、いかにでも表現出来得ることを忘れていました。彼は、自分自身をいつでも好きな時に、好きなように創造できることを忘れていて、自分自身を、偉大な彫刻家としての表現の中に閉じ込めていたのです。それは、文字どおり、自身の彫刻の中に自身を閉じ込めていたのと同じことだったのです。

そういうわけで、彼はたくさん歩き、旅をして、たくさんの人に会いました。彼は再びアイデンティティが確立され、それが確定してしまうことに抵抗しました。彼は自分にアイデンティティは持たせはしましたよ。彼は自身のする表現を楽しみました。しかし彼は、1つのアイデンティティに閉じ込められることには抵抗しました。ですよね、ええ、まあ、1,000年も神の彫刻の中にいた後ですからね。

彼には、アイデンティティが固定化されないことの楽しさを分かっていました。ある日には彼はある存在になり、また別の日にはまた別の存在になれるのです。彼はパン職人になれますし、芸術家にもなれました。彼は政治家であり、彼の望むあらゆる者になれました。彼は村から村へと歩き続け、人々との会話を楽しみ、人生を謳歌しました。彼は、彼の内なる神から「君はあらゆるアイデンティティなんだよ。君は君が望むあらゆる者だってこと。もちろん、ある1つのアイデンティティに深く潜ってみることも可能だよ。あたかも彫刻の中に閉じ込められたかのような具合にだってなれる。ただ、君はいつだって自由だ。いつだって、自分に与えたいと思うアイデンティティを創造することが可能なんだ」そう言われるたびに、人というものがいかに簡単に1つのアイデンティティに囚われやすいかを認識しました。

はい、これがジョゼッペという彫刻家のストーリーです。私のストーリーほどは(リンダ、鼻で笑う)、例の ―その話もするつもりだったんだ(リンダ、笑う)。クリスタルの牢獄に閉じ込められた私の話ほどではなかったですが、ま、その別の例で、今日話したい内容の導入としてはありですね。

Identity(アイデンティティ)

今、あなた自身に出てくるものとして、あなたが気付くであろうこと ―あるいは既に出てきているもの― それは、あなたが生み出し、形作って、造形し、自分のために型にはめてきたアイデンティティの感覚の行き詰まりです。そのアイデンティティは崩れ落ちようとしています。完全に古くなってしまっています。そのアイデンティティはあらゆる気象、雨、風、嵐、他の人々、退屈さ、鬱積、などとあなたが呼ぶものに晒されてきました。あなたは、その古い彫刻、あなたという銅像、その物理的な身体、そのあなたのマインド、あなたというアイデンティティの中にずっとずっといたわけです。なので、ビビりますよね! あー、みなさんの中には小賢しくも「いやいや、違うよ。アイデンティティが無くなるって、それは素晴らしいことだよ」そう言っている人もいますが、いよいよそれが現実に起こりそうになってくると、恐怖が出てくるものと思います。「えええ、このアイデンティティがバラバラに砕け散ったらどうなるんだい?」と。そうしてあなたは抵抗します。

あなたはそのアイデンティティを守ろうとするでしょう。そして、その目論見は結局のところ機能しません。嵐、トルネードはあなたを必ず見つけ出します。何故なら、それはあなただからです。それはあなたの魂が ―そしてドラゴンが― こう言っているということだからです。「あー、いやいや。もうダメダメ、今のままは良くないよ。もう真に自由になる時だよ。君はそのアイデンティティだけじゃないと分かる時だよ。つまり、そのアイデンティティはアイデンティティで良いんだよ、それはそれとしてね。ただ、君はそれよりも、遥かにもっともっとすごいわけだよ。で、そのアイデンティティをバラバラに壊さなければならない時が来たのであれば、破らないといけないのであれば、君を銅像から、無理やり閉じ込められていた彫刻から引きずり出す時が来たのなら、そうするのはこちらとしてはオーケーだよ。だって、我々には分かってるから。究極的には ―究極的にはね― 君は、アイデンティティを変えることが出来て、表現を自由に変化させられる、他者との関わり方をいつでも、いかようにでも変えられる、真に自由な存在になりたがっていることがね。それこそがマギだよ。それこそが魔法使い、マーリンだよ。聞きようによっては矛盾があるけど、私は私である全て、以外の1つのアイデンティティには囚われていないということだよ。ただ、私は私である全て、というのは定義ではないからね。意識だよ。銅像じゃない。オープンに流れる空気だよ」と。

私がこの話をするのは、みなさんと取り組みを行ったり、みなさんの様子を見ていて、無論、クツミもみなさんの側でいろいろなことをやっているので ―少なくとも1週間に1回は「シャーンブラはどんな感じだい? 何をやってるかな? クツミ、君にはどう見えてるかな? 彼らはどの辺に位置しているだろう?」と、我々で意見交換をするのですが、私たちがともに認識していること、それは、今はかなりのレベルでアイデンティティの溶解、崩壊が起こっていて、そのことにみなさんが震え上がっているということです。みなさんは、あなたは、それをまだ掴もうとしています。それにしがみつこうとしています。自身のアイデンティティを強化しようとしています。が、そんなことをする必要はありません。大きく深呼吸をして、手を放してください。それはそのアイデンティティの死を意味しません。それはあなたが、他にもある多くの形の表現、違うタイプのアイデンティティに対してもオープンになったというだけの話です。全部のアスペクトがあって混乱するとか、そういう心配も無用です。あなたは、表現するようになり、それを変化させるようになり、アイデンティティを付け直す、あるいは、アイデンティティを同時に複数持つ自由を得たということです。

今、惑星では人々がアイデンティティに関して声高に言っているのが聞こえてきます。これこれというアイデンティティ、あれあれというアイデンティティ、トランスジェンダーとしてのアイデンティティ、軍人としてのアイデンティティ、これこれあれあれのアイデンティティと、人々は盛んに話しています。で、私たちは今、そういう数々のアイデンティティに対して、開いていっているということです。アイデンティティを1つに限定しておく理由なんかないですよね? いもしない神々が決めたと言って、アイデンティティを1つに絞るなんて、意味不明ですよね? 何をベースにするにせよ、アイデンティティを1つだけ作る、その了見が分かりませんね。分かりますか、しばらくはそれはそれで楽しかったのかもしれませんが、ただもう今は、そういうのは手放して、真に自由になる時です。

これはとても大きなシフトです。我々からは、アイデンティティの複数化、アイデンティティの再設定に関して、みなさんの多くが抵抗しているのが感じられます。その抵抗は、古いアイデンティティが崩れ落ちているがゆえのものですね。ドラゴンはそれを壊す助力として機能しました。あなたにはドラゴンがそこにいるのが分かります ―ドラゴンとはあなたです― ドラゴンがそこにいるおかげで、あなたはたくさんの者になれるのです ―マーリンになれ、惑星にいる人間になれ、様々な意味で子供になれ、アーティストになれ、なりたいと思うあらゆる者になれるのです― その全部になれるのです。それが惑星でマーリンであることの美しさです。あなたは1つのアイデンティティの形だけに縛られてはいないのです。

あなたの名前も、分かりますか、友好的な警察官に対して運転免許証を提示する時以外は、
もはや重要なものではありません。名前はもう、さして重要なものではないのです。これまであなたのアイデンティティを形作ってきた数々、成果の数々、学位、失敗、それが何であっても、もう重要ではありません。それらはアイデンティティの形成には役立ちました。スピリチュアルな青銅の中に自分を入れ込むための役には立ちました。しかし今は、ジョゼッペが自身の彫刻から開放されたのと同じように、自身が真に自由であるために、それらを手放す時なのです。

大きく深呼吸をしてください。あなたがこれまでに形成してきたあなたのアイデンティティ、その美しさ、あなたが彫刻してきたもの、その見事さを感じてください。その美しさを称えてください。それもまた神であると称賛してください。ただ、ジョゼッペのように、その彫刻に、単一のアイデンティティに、自身を閉じ込めないでください。ここで言いたきは、あなたは複数アイデンティティの状態へと向かっていて、最初はそれがちょっと怖いということです。自身の基盤、土台が欲しいような気になります。「グラグラしないでいられる場所はどこ?」です。が、そのことを心配しないでください。あなたが今いるのは、身体とマインド、スピリット、そして魂の中間なのです。全ては自然と落ち着きます。

私に今、シャーンブラに対して印象付けておきたいことがあるとするなら ―私はこれまでもいろいろなやり方でそうしてきましたが― それは、今、彫刻を造ろう、整形しようとはしないでください、ということです。マスターとしての自分、というのでさえ、作ろうとするのはやめてください。みなさんの中にはまだ、嗚呼、それをしようとしている人がいますね。「うーんと、マスターって何だろう? 定義しよう。マスターという青銅の中に自分を閉じ込めよう」そうしている人がいます。そういうことではありません。マスターとは、とても流動的です。マスターはタイムトラベルをします。マスターは空間を超越しています。マスターは自身の定義を必要とはしていません。「私は私、ただ在る」だけでマスターには十分なのです。マスターには、何をどう着るかであるとか、どういう話し方をするであるとか、そのような定義は不要なのです。真に定義の無い存在です。

あなたはマスターを演じて楽しむことは出来ますよ。そのようにドレスアップをして、いつもと違う場所へ旅をして、いつもと違うことは出来ます。ただ、今は、自分で造った定義の中に、ジョゼッペのように囚われるのはやめてください。何故なら、その定義は変化しているからです。新しい定義を考えようなんてしないでください。自分の新しいアイデンティティを更新しようとなんてしないでください。そんな必要はありません。アイデンティティは進化します。アイデンティティは自らを通して輝きます。今あなたに何かやれることがあるとするなら、それは単純に、経験する、ということです。それはベッドから出ろという話であることもあれば、外に出かけなさいということでもあるでしょう。とにかく、新しいあなた、新しいアイデンティティの数々、複数形ですよ、あなたが今まさに想像しているそれ、それらの経験をしに行ってください。それらを体験してください。

そのことを胸に、大きく深呼吸をしてください。感じてください。そのために頑張る必要はありません。私は単に、あなたの人生にたった今起こっていること、あなたが今感じているようなことを、あなたがどうして感じているのか、これまでそうであった古い銅像から脱出したい、それこそトルネードに来て欲しい、そんな希望を感じるのは何故なのか、をレポートしているに過ぎません。あなたは自身の人生にやってくるトルネードを創造しつつある、そうとさえ言っておきます。長い長い間、古い銅像の中にいて、生き詰まって、あなたは今 ―分かりますか、風や雨、そんなじゃいつまでかかるか分からないよ、そう言っています。「トルネードぐらい持ってこい。この古い人間のアイデンティティから飛び出す準備は出来てるよ」そう言っているのです。

実のところ、それは必要なことですね。人間という種の進化の中にあって、私たちが向かおうとしているところを鑑みるに、銅像を粉々のばらばらに破壊して、銅像から出るというのは、必須です。ただ、そこに痛みを伴わせる必要はありません。楽しくだってやれますよ。ただ、いずれにせよ、自分自身を様々なレベルで経験するためには、銅像から外に出るというのは必須のことである、ということです。はい、あなたには様々なアイデンティティを想像する力があります。それらで遊び、楽しむことが可能です。ただ、それを銅像にするのはやめてください。

さあ、あなたである全てとともに、たくさんのたくさんのアイデンティティとともに、大きく深呼吸をしましょう。そしてそれらの体験を始めましょう。

はい、外に出ればたくさんの人に出くわします。お店へ行っても、創造的なプロジェクトをするにしても、何をやるにせよ、そうですね。で、あなたはそうしているうち、古いアイデンティティに関して、そもそも、それをそこまで固定化しておく必要などなかったことに気付くでしょう。

人によっては、アイデンティティが無いことに恐怖を覚える人もいるでしょう。つまり、ほとんどの人は「いいですね、来週の土曜にはみなさん全員のアイデンティティを没収します」などと言われると、死ぬほど震え上がるということです。何故なら、彼らはアイデンティティで自身を自身だと識別しているからです。彼らはがっつりその中に囚われています。彼らが自身として関連付けられるのはそれだけなのです。朝ベッドから出た時からアイデンティティと繋がっています。それと1日中繋がっています。彼らはアイデンティティに対して不平不満を言うでしょうが、しかしそのアイデンティティ無しでは自分を見失ってしまうのです。

みなさん、シャーンブラ、あなたは、アイデンティティを必要としていません。あなたはそれで楽しむことはありますが、それを必要とすることはありません。単純に「私は私である全て。さてさて、この瞬間に一番良いのはどれだろう、どれにしようかな?」と言うだけです。

さあ、大きく、深呼吸をしましょう。

それが、みなさんの多くがたった今、通り抜けていることです。そしてそれは、銅像が壊れてしまうまで続きます。ジョゼッペのように、自身を自由にするまでですね。そうなって自由を得た瞬間「自由って言われても、どうしていいか分からない」と、また銅像に戻りたいと思いますが、時すでに遅しですね。銅像は壊れているので不可能です。それであなたには、全てが完璧だったのだと分かります。人間のアイデンティティの喪失含めてそうなのです。そうして、あなたは真のあなたの全てが分かることでしょう。

オーケー、では、次の話に移りましょう。大きく深呼吸をして、今の内容を染み込ませてください。大きく深呼吸をして、コーヒーをひと口いただきます(アダマス、コーヒーをすする)はぁ〜!

Consciousness vs. Thought(意識 vs 思考)

というわけで、次の予定に入ります。今ここで、大きな質問をします。「意識と思考の違いは何でしょうか?」です。このヴィラ・アミヨーでやった最近のギャザリングの1つでも、これに関してそれなりに議論を行いました。意識と思考の違いとは何か? です。これを端的に述べるのは難しいです。リンダ、ボードに書いてもらえるかな。上の方にヘッドラインみたいに「意識 vs 思考」と。

リンダ:了解。

アダマス:これは少々難解な話です。何故なら、この2つは非常に近接していながらにして、しかし全く全く別物だからです。私は、みなさんがその違いを理解するその助けになればと思って、こうしています。

往々にしてその2つは絡まり合っています。そういうわけもあって、みなさんは全てを思考として分類しつつ、思考、意識に対してそれぞれに異なった反応をしています。

意識と思考の間にある違いとは何か? 私はそのことを ―非常に、非常にシンプルに、覚えやすいように噛み砕きます。私は、覚えやすくしたい、そう思っています。リンダさん、覚えてるかな。最近のワークショップでやった簡単に覚えるやり方、言葉にすればいいってものじゃない、てやつだね。みなさんがエネルギー的にコミュニケーションをするようになった今では、言葉というのは大きな制約となり得るのです。というわけで、私は、全てを言葉で定義するわけではなく、且つ、非常に非常に記憶しやすくなる素晴らしい方法、格言を編み出したのです。それが何かと言うと ―それが何だったか覚えてるかい?

イエスだね。覚えてるね。彼女は言葉にはしたくなさそうです。言葉は糞たり得る(Words can be turds 訳注:words/言葉/ワーズ turds/糞/ターズ)です。

リンダ:それは言いたくはなかったわね(アダマス、笑う)

アダマス:そのぐらい単純な話だよ。

リンダ:そんなこと、言いたくなかったわ。

アダマス:いやいや、ワーズはターズたり得る、だよ。そして、、、

リンダ:それを言いたくなかったのよ。

アダマス:私はターズというのは古代ギリシャ語だと説明しました。それはぐじゃぐじゃという意味で、、、なんだい? どうかしたかい?

リンダ:あなたが作ったのよね。

アダマス:私が作ったよ。完全に私の創作だね。ただ、そのワークショップの参加者に言ったように、仮に「うわ、エネルギー的なコミュニケーションをしていながら、言葉を使わないようにするのは難しいぞ。マインドが言葉をどんどんと挿入してきて、自分が言葉に入り込んでしまう」となっても、忘れることはない言葉だよ。それは「そうだね、言葉って本当に無用なんだ」私がそう言うような状況にうってつけだね。まさに言葉は糞たり得るんだよ。言葉は自然でオープンなコミュニケーションを妨害する。ま、それはここでボードに書いて説明したい内容とは違うんだけどね。

ここでしている話は、意識と思考をどう見極めるか、ですね。それはとても単純です ―省略記号、省略符です。省略記号ですね。点を4つ ―いち、に、さん、よん。ボードに大きな点を4つ打ってもらえるかな。点を4つ。

よくある省略記号は ―リンダが書き終わるのを待ちましょう― 通常、省略記号というのは、3つの点ですね。ここでは、通常の省略記号と区別するのと、あとリマインドして使えるように4つとしておきます。てんてんてんです。「省略記号」と複数形で書いてもらえるかな?

リンダ:複数形ね。分かったわ。

アダマス:両方書いてもいいね ―「省略符」と、、、

リンダ:すぐ下かしら?

アダマス:そうだね。省略記号(ellipses)と省略符(ellipsis)です。英語であればフレーズの最後に …. です。そしてそれが意識と思考の(リンダ、正しく綴ろうとしてため息)違いを見分ける方法です。なるほどね。綴りが難しい言葉だね。「l」が2つだね。というわけで省略記号、省略符です。リンダが書き終え次第、その内容をやっていきます。

リンダ:「ses」と「sis」よね。

アダマス:s-e-s だね。一種の内輪ネタみたいなものですね。そんな省略記号です。省略記号というのは通常は点が3つですが、私たちは4つを使うわけです。省略記号です。じゃあ、次のページを頼むよ。

というわけで、意識と思考の違いを理解しやすくするためのガイドです。意識はこうです。「私は私である全て、、、、(I Am that I Am….)」と書いてもらえるかな。「私は私である全て」に点を4つ。それが意識です。つまり、それで言いたき意味合いは言葉に入れ込まれましたが、しかしながら、完全に定義されてはいないものということです。後ろの4つの点は、そこから経験へ向かっていく、という意味です。定義が完結していません。終わり方はオープンです。さあ何かに向かうぞ、経験するぞ、という感覚です。思考にだってなれます。「私は私である全て」です。そしてそこに点4つで意識です。

思考はたくさんの形態を取り得ます。それをカテゴリー分けするなら ―そうですね、思考とはこうです。書かなくていいよ。思考であれば ―「私は私が誰であるか定かではない」です。これは思考です。他には「私はジョゼッペであり、彫刻家です」で、これも思考です。「私は66歳で、良い気分です」も思考です。そういうのは全て思考で、最後はピリオドで終わります。「私は惑星にいる人間です」ピリオド。それはそれで構いません。それで悪いことは何もありません。ただ、意識の方は、終わり方がオープンになっているということです。「私は私である全て、、、」と、省略記号の追加です。それは意識です。

意識と思考の違いというのは、省略記号とピリオドの違いだということです。

他にもたくさんありますよ。「私は在る、、、、」そう書いてもらえるかな。それは ―点4つだよ― それが意識です。「私は在る、、、、」です。フィーリングです。多くの定義を必要としないものです。

リンダ:省略記号がってことかしら?

アダマス:そうだよ。たくさん、ちゃんと定義しなくていいってことだね。それが意識だよ。「私は在る、、、、」だよ。それが思考になると、「私は自分が何をしているだろうかと考えている」とか「私は自分が身体の中にいると感じている」や「自分がどのぐらいリアルに在るのか定かではない」というふうに、いかようにでもなる。それらは全部思考だよ。

エネルギー的に感じてみてください。「私は在る、、、、」です。意識です。そうだという気付きです。「私は在る、、、、」です。なら思考は、と言うと「自分が何歳で死ぬのか分からない」です。それが思考です。それが悪いという話ではありません。それが何であるかという話でもありません。単純に、意識と思考の違いを理解するための話であり、それは即ち、マスターとしての自分と人間としての自分の違いを理解するための話です。

他にボードに書くなら「今日は良い日だ、、、、 良い日だなあ、、、、」です。これは意識です。最後に省略記号が付いています。「良い日だなあ、、、、」です。朝起きて、外に出て、本当に、文句の付けようのないそういう日には、そんな言葉さえ要りません。私は言葉を使っていますが、省略記号だけでもそうなりますよね。大きく深呼吸をして、空気を吸って ―省略記号、てんてんてんてん、です。つづく、です。そしてさらに、です。体験はつづく、です。「良い日だなあ、、、、」です。それが意識です。フィーリングです。

そしてそれが思考であれば「良く晴れている」です。思考は「さて、今日は何をするか迷うな」です。「うーん、嵐の前の静けさかな」も思考です。「今日は暑くなりそうだ」も思考です。それらは思考であり、それはそれで構いません。「良い日だな。こういう日には自分のために何かしよう」も思考です。

というわけで「今日は良い日だなあ、、、」が ―意識です。「自分のために何かをしよう」が ―思考です。そうやって見分けられます。意識と思考の違いというのは、省略記号 ―てんてんてんてんで、完結していない― なのか、文章の最後を締めるピリオドがあるかです。

思考には構造があります。思考とは一時的なものです。思考は彫刻や銅像と同じものです。それらは定義されていて、最後はピリオドで閉じられていいます。その終わりがあるものです。

あなたの脳内にはたくさんの思考が存在しています。毎日毎日、常に常に思考があります。思考は ―こうやって話をしているたった今でさえもそうです― 「うーん、みなさんに理解してもらえているだろうか? みなさんは、そもそもこんなことを理解したがっているのだろうか?」という思考があります。「おお、アダマスはやっぱり賢いなあ」という思考もあります。それらは全て思考です。

究極的に、意識というのは本当に ―「はぁ〜、今日は良い日だなあ、、、、」という言葉さえ要らないものです。意識とはただただシンプルに「はぁ〜、、、、」と、てんてんてんてん、です― ボードに書いてもらえるかな。「はぁ〜、、、、」と ―そこに何かを付け足そうとはしないものです。分かりますね、もちろん、言葉を別に少しぐらい付けたって構いません。「はぁ〜、今日は良い日だなあ、、、、」です。素晴らしいです。それが意識です。ただ、究極的にはシンプルに「はぁ〜、、、、」「これは、、、、」だけで、後は感じて、経験するだけのものなのです。感じることも経験するのです。外へ出て、身体的、そして精神的な形でも、それを経験するのです。

「はぁ〜、、、、」です。ただ、今は、まだそこにいくらか言葉を加えても構いません。「はぁ〜、今日は良い日だなあ、、、、」と。大きく深呼吸をして、それを感じるのです。それが意識です。気付きです。

私がこの話を持ち出したのは、何が意識であり何が思考であるかを識別するのが、難しいことが多いからです。「自分のどの部分が意識なんだろう? 意識とは単純に、大脳皮質を通り抜けて、そこから出されて、自分の他の全部分と接続し、通信される何かなのか?」というふうに。違いますね。それは思考ですね ―ハッハ!― そして、そもそもも違いますね、思考は大脳皮質から始まるものではありません。脳にある一部分が意識から吸い上げて咀嚼して ―ババーンッ!と― 思考や言葉に置き換えるのです。

では意識とはどこにあるのでしょうか? あらゆる場所です。あなたがいる全ての場所にあります。そうでなければなりません。仮に意識がなかったなら、そこには何もありません。あなたがそこにいないなら、そこには何も無いのです。というわけで、場所があるなら意識はその全ての場所にあるのです。それは単に脳の中、身体の中にだけあるものではありません。意識はそういうものの中にもありますが、そもそも全ての場所にあるのです。意識は空間を占拠することはありませんし、いかなる形の時間とシンクロすることもありません。意識はただあるのです。意識です。「はぁ〜、、、、アイアムだなあ、、、、」

一方で、思考はしっかりと定義されています。往々にして判断が含まれています。それは往々にして言語化されていて、だからこそ、それがそうあるべくして効率的にコミュニケーションが図れるのです。思考はアイデンティティを築くものです。これを新しい紙に書いてもらえるかな。「思考はアイデンティティを築くもの」と。意識はアイデンティティを築くことはありません。しかし思考はあなたのアイデンティティを築きます。あなたを、そうであるあなたに押し込みます。思考が、あなたを惑星で唯一単独の個人且つ、非常に複雑な存在にするのです。

いずれにせよ、それらは全て思考です ―「私は○○歳だ」という思考、「今日は気分が良くないな」という思考、「私はもっと頑張らないと」という思考、「次のシャウドまで待てない」という思考― 全部全部思考です。良いものもあれば、そんなに良くないものもあります。そしてあなたは、そういった思考が頭の中で絶え間なくペチャクチャとお喋りを続けることに慣れています。そしてそれを意識だと思っています。あなたはそれがあなただと思います。が、違います。それらは単なる思考です。ただの思考です。あなたの脳の中を今も、とんでもなく、たくさんの、大量の思考が走り抜けているだけの話です。

あなたは意識です。あなたは意識なのです。「私は私である全て、、、、良い日だなあ、、、、この味最高、、、、」それが意識です。それが気付いているということです。それらは往々にして、そこから思考へと変わるのです。「トマトが本当に新鮮だ。この魚の味付けは素晴らしい。このケーキ、甘くて美味しい」という具合です。

それらは思考です。意識は「この食べ物のエネルギーと繋がっているのチョー好き、、、、」です。それが意識です。後ろに点が4つあるやつです。究極的には、先ほども言ったように、単純に「I Am、、、、はぁ〜、、、、」です。それが意識です。とは言え、人間としては、それよりもう少し言葉が欲しいところではありますね。

さあ今、自分の意識を感じてみてください。それはどこか特別な場所にあるものではありません。脳から来るものではありません。意識は思考ではありません。それは単純に「はぁ〜、、、、I Am、、、、これは、、、、」です。気付きです。

意識それ自体は、絶対にアイデンティティを作ることはありません。意識はアイデンティティを作らないのです。意識は非常に流動的で、オープンで、常に流れています。それは、文の最後に付いたてんてんてんてんです。ずっと続くということです。終わることはありません。流れ続けるのです。それは、ある1つの意識の感覚から、別の意識へ、ある1つの気付きから別の気付きへと流れていくと言えますね。終わりが開放されています。あなたは意識なのです。

そして意識は、あなたに、ああしろこうしろと指図することは一切ありません。意識は単に、あなたがしていることに気付いているだけです。意識はアイデンティティを生み出しません。

意識が真のあなたです。それは思考をしません。思考する必要がないのです。それは単純に「私は私である全て、、、、」なのです。意識とは内にある、あなたの内側にある、真の答えです。あなたの脳を数々の思考が流れていきますが、何かを解決しよう、答えを見つけようとしている時は特にそうなりますね。様々な思考が葛藤、錯綜します。それらはただの思考です。

あなたの意識、「私は私である全て、、、、」に戻ってください。てんてんてんてんは「私は私である全て、、、、さあそこに飛び込んで、経験しよう」という意味です。ただ、ジョゼッペのように、そこに囚われないでください。で、思考に飛び込んでください。経験に飛び込んでください。そうしたいなら、喜びに飛び込んでください。そうしたいなら、苦しみに飛び込んでください。なんだって問題ありません。それに飛び込んでください。省略記号です。連続性です。

ええ、思考もまた、常に連続していると言えますよ。ただ、それは思考の連続、最後にピリオドの付いた文の連続、定義されていて、構造化された、マインドのようなものの連続です。

マインドが思考を生成します。マインドは意識を受け取って、マインドなりに、非常に制限されたやり方でですが、そうして、思考を作り上げます。それがあなたのアイデンティティを形成します。あなたがそれに囚われないのであれば、それは悪いことではありません。

マインドにある思考 ―これはマインドに関して興味深いことであり、私たちがここから進んでいくために非常に重要なことでもありますが― そして私がこの話を持ち出したのもそれが理由ですが、あなたのマインドは変わっていっています。あなたの現実は、思考をベースにした観念、構造のあるものから、より意識指向性の高いものへと戻りつつあります。あなたは、あなたの少しではなく、あなたである全て、より意識的で、よりたくさんのアイデンティティを携えた状態に戻りつつあるのです。

マインドはとても構造的です。マインドは、銅像に閉じ込められているような感じです。マインドは自分自身を1つの表現に押し込めて、そうして動かないでいるのです。マインドとはそういうものです。ただ、マインドに関して1つ言えるのは、特に今はそうなのですが、マインドは非常に従順であるということです。リンダ、その下に書き加えてもらえるかな。美しい、美しい格言です。マインドは従順である。と。

リンダ:(囁く)オーケー。

アダマス:マインドは、おい、やれと言われたことをやっているだけなのです ―思考を生成して、現実を形作って、整形する。1つのアイデンティティの中に留まっておく、です。あなたの一部分が、マインドにそうしろと言ったのです。そしてマインドはとてもとても素直なので、従順にそうしていたというわけです。マインドは言われたことをやるだけです。マインドは言われたことを、トコトンまでやるのです。マインドは取り憑かれたようにそれをします。

リンダ:ピリオドと省力記号のどっちかしら?

アダマス:何も付けなくていいよ。何もいらないね。

マインドはとても従順です。あなたの意識がより気付きの中に入ってきているその結果として、マインドに今起こっていること、それは、マインドが「思考、そして現実の取り扱いに関して、完全にやり方を変える時が来ましたね。意識が入ってくる時が来たんですね。光があり、これだと全体像がよく分かるようです。これなら、過剰に定義し過ぎることのない現実を作る、そんな思考を投入することも出来そうですね」という方向へ従い始めているということです。マインドはとても従順です。まだ抵抗しているように感じられたとしてもマインドはこう言っています。「こちらとしては当然、変わる準備は出来ていますよ」

そのことを、脳のことを、あなたのマインドのことを感じてもらえますか? 分かりますか、何千億という数のニューロンが活発に働いています。それって完全に想像を絶することですよね。マインドとは、反応するための機能でありメカニズムです。あなたがそうしてほしいとプログラムしたことを忠実に実行するコンピューターです。そして今回は、実行されつつある大きなこととして「全ては私のエネルギーである。エネルギーは私に仕えるためにそこにある」という命令があるのです。マインドはそれを受け入れつつあります。過去にあった「全てのエネルギーは他のどこか、他の誰かのところにある。私はその一部を奪わなければならない」に対抗して、そうしています。

今ではもう違うのです。マインドは調整を続けています。マインドはあなたの声を聞いたのです。あなたがこう言ったのを聞いたのです。「そういうこと。それで決まり。エネルギーが自分に仕える準備は出来た」と。マインドはそのとおりにします ―少し時間はかかるかもしれませんが― それを受け入れ始めています。マインドは健気にこう言っています。「我々は、これまであまり馴染みのなかった概念に対してオープンになります。その概念に馴染みはありませんが、それをオープンにそれを受け入れることとします。エネルギーは我々のものである、そのことをオープンに受け入れることとします」と。マインドはこうも言っています。「私というアイデンティティを単一に制限しておく必要はなくなったわけですね。私は私である全て、ということですね」と。

マインドはそもそも、んま、構造的です。が、従順でもあります。マインドはこう言っています。「了解しました。アイデンティティは不要ということですね。我々にはアイデンティティが必要だ、そう言われたので1つ作って保持していました。が、それが今はもう必要なくなったということですね。理解しました。我々はもっと流動的になり、オープンになり、フレキシブルになるということですね」

今、あなたのマインド、あなたの脳は、まさに今も、そのことを断続的に受け入れつつ、内部での調整を進めています。あなたには、何かをする必要はありません。無理に推し進める必要もありません。マインドのエクササイズをするとか、その手のことも不要です。マインドはそれを受け入れていきます。そうなります ―常にそうでもあったわけですが― マインドはマスターに対して従順です。そしてマスターとはあなたです。

そのことを胸に、大きく深呼吸をしましょう。

あなたが通り抜けているそういった変化は ―私は、あなたが通り抜けているその内容を単に共有しているに過ぎません。実際にそれをしているのはあなたであって、私ではありません― いずれにせよ、あなたが通り抜けている変化は、構造化された、彫刻されたアイデンティティを崩壊させる必要があってのことなのです。あなたはもう銅像ではないのです。今のあなたには、意識が何であるかを識別出来る理解があります。とてもシンプルなものです。意識とは、フィーリングです。完結されていない、オープンなものです。省略記号です。てんてんてんです。「私は在る、、、、私は在る、、、、良い日だなあ〜、、、、この機械の時代にここにいられて最高、、、、」というものです。「そうだな、それって意識かな、思考かな?」となることもあるかもしれませんが、なら、それを意識に持ち込んでください。それでそれはそうなります。

思考はもしかたら「ここに至るなんて思ってもいなかった」そんな形かもしれません。思考は「これが期待していたものだ」のようなものかもしれません。「機械の時代ってどんなものだろう?」も思考です。が、意識は「私はここにいる、、、、私はここにいる、、、、」です。思考を必要とはしないのです。

意識が本当のあなたです。思考は、それを経験し、それを演じる手段です。ただ、それらを青銅の中に閉じ込めないようにしてください。

大きく、深呼吸をしましょう。

マインドは変化しています。あなたは今、純粋な意識 ―気付きですが― 純粋な意識が何であるか、そしてそれ以外の全ては思考であるということを理解し始めています。

何かを選択する際、あなたはどこへ向かうべきでしょうか? 経験をする準備が出来たあなたはどこへ行けばいいのでしょうか? シフトする準備が出来たら、どこへ戻ればいいのでしょうか? いつだって、向かう先は意識です。

「私は私である全てを選択する、、、、私は喜びを選ぶ、、、、」それが意識です。それは思考だと主張することも可能でしょうが、しかし、その最後に省略記号が付くかどうか ―「私は喜びを選ぶ、、、、」を変えて―「私は喜びを選ぶ」とピリオドで閉じてみます。こういう違いがあるのです。

この転換、あなたの意識が何であるかという理解、もうアイデンティティを構築する必要はないという理解を胸に、大きく深呼吸をしましょう。あなたには真のあなたである自由があります。どんな銅像にも閉じ込められていなのです。そのことをしばし感じてください。

(間を取る)

あー! 想像力豊かな人が結構いますね。ええ、省略記号のネックレスが見えました。4つのダイアモンドが並んでいます。あらら、その想像をしたのはリンダでした(彼ら、笑う)。いずれにせよ、そのぐらいシンプルな感じで考えてください。考え過ぎないようにしてください。「彼は何をどう言ったっけ?」ですか。違いは省略記号です。てんてんてんてんです。それが意識です。思考はピリオドで終わります。とてもシンプルです。

Shining Our Light – Merabh(私たちの光を輝かせる – ミラーブ)

オーケー。では次に進みましょう。私たちにはやることがあります。それをやることが私たちが今この惑星にいる本当の理由です。なので、みんなで一緒にベンチングをするとしましょう。さあ、私たちのエネルギーを集結させましょう。音楽をかけて、私たちがここへ来た目的を果たしましょう。

もちろん、みなさん各々、自分の好きな時にベンチに腰掛けることは可能ですよ。ぜひそうしてほしいと思います。ただ、これを修行や戒律にはしないでください。これは苦しみであるべきではありません。これは、あなたが日常から少し離れて一息つく、そういうものであるべきです、、、

(音楽、流れる)

、、、そしてこう言うぐらいのものです。「さてさて、ベンチングでもするとしますか。私の光を輝かせるとしますかね。そもそもそのためにここにいるんですとも。こんな驚くべき時代のこの惑星に、これをするために来たんだですから」と。

ベンチングの美しいところ、それは、あなたが変化を起こそう、押し付けようとはしていないところにあります。あなたは世界平和を映像化しようとさえしていません。中には「まあそうだけど、それって良いことじゃないの?」そう言う人もいるでしょう。ある地点まではそうですが、そう言う人に私は、思いやり持つことの方がよほど重要なことだと言っておきます。

思いやるとは、全部受け入れてあげることです。全ての人が各々の旅をしています。はい、中には苦しみを選択する人もいるでしょう。中には虐待、ドラッグ、アルコール依存症、それが何であれ、そういうものを選ぶ人もいます。それがその人の選択だからです。その中で準備が出来た人がいるのなら、彼らの方からあなたのところにやって来ます。彼らは彼ら自身のところにやって来ます。彼らはあなたの光に影響されにやって来ます。そうでないなら、手出しは無用です。彼らが選んだことを彼らに経験させてあげてください。それが人を思いやるということです。

私たちはベンチングのためにここにいます。ベンチングです。あー! コーヒーがあればいいですね。食べるものがあってもいいですね。

ベンチングは瞑想ではありませんよ。

ベンチングは瞑想ではありません。たくさんの人がマインドを鎮めようとして瞑想をしています。プー!ププッ! 意識と思考の違いが分かるまで、せいぜい頑張ってください。

ベンチングとは「私はここまで来た。私はここにいる。私は地上にいるマスターだ。私は私のエネルギーが自身に仕えることを許している。私はここに腰掛けて、ただ自身の光を放っていればいいだけなんだ。忙しなくやっていたことを全部止めた。しばしでも、何もしないで、ただ自分の光を輝かせるんだ」というものです。

「まず、私は私自身、私の身体に光を降り注ぐ」あー、今日は身体について触れもしませんでしたね。身体に今起こっていること、それはライトボディに至っていくということですね。

「私は私のマインドにも光を注ぐ。この健気なコレは、私のてっぺん、頭にあって、ずっと長い間、私に従って銅像をやってきた。それが今、私は意識の中で非常に目が冴えている。つまり、マインドはその目の冴えた私に従うわけで、マインドは開かれるということだ」マインドはとても従順です。とてもフレキシブルで応用が利きます。その2つの面が手と手を取り合って、とはなかなかならならいものですが、いずれにせよ、マインドというのは非常に応用が利くのです。

分かりますよ。みなさん「アダマス、君はずっとマインドに対して手厳しかったと思うけどね」そう言いたいのは分かっています。事実、私はそうでした。何故そうだったかと言うと、分かりますか、時にシャーンブラと取り組みを行うというのは、並べた銅像に向かって話をするのと同じだからです。私には、みなさんの注意を引く必要があったのです。向かって行くミニ・トルネードをやるしかなかったのです。が、それが今は、アイデンティティ、銅像は、崩れ落ちています。マインドはマスター・アナタに従う自由を得たのです。

マインドには、これまでとは違うやり方でエネルギーを引き込む自由があるのです。マインドには、これまでとは違うやり方で自身とコミュニケーションを取る自由があるのです。もうニューロンだけ頼らなくてもいいのです。

マインドには、これから起こること受け入れて、自身を調整する自由があるのです。

もうそのために、複雑なニューロンの活動による通信システムを使わなくていいのです。そんなものは必要ないのです。

あなたはまず自分自身に、身体に、何か変化を起こそうとすることなく、それよりはむしろ自然な、事の成り行き、ナチュラルに進む進化を受け入れた状態で、光を注ぎます。

そして次にマインドに対してそうします。マインドを彫刻しようとすることなく、なんらかの銅像に変えようとすることなく、それよりはむしろ自身が輝きならこう言います。「さあマインドさん。目の前には可能性が無限に広がってる。行ってみようじゃないか」と。

あなたはあなたの人生全体にも光を注ぎます。何かを作ろうすることなく、何かをしようとすることもなく、そうします。ただただ光り輝きます。

で、結局のところ、光って何でしょうか? 光とは意識です。気付きであり、思考になる前のものであり、省略記号であり、てんてんてんてんです。

あなたはあなたの光のおかげで、自分のことにもっともっと、本当に気付くようになっていっています。本当のあなたである全て、銅像ではないあなたに気付くようになっていっています。

そうして、世界に光を放ちましょう。この惑星、物理的な惑星、ガイアに ―去りつつありますが、彼女にはまだ残務があるようです― 地球にある自然に光を放ちましょう。なんと美しいことなのでしょうか。

みなさんも、この惑星の自然を基に創造されたニューアースにある庭園の数々を見るべきですね。この惑星から去ってニューアースへ行った多くの人が、自然の美を持ち込みたいと考えたのです。あの庭園の数々は本当に素晴らしいです。彼らは自然の概念、その核をこの惑星から得て、ニューアースでの人生に持ち込んだのです。

スマホの中にも美しい自然の写真ならたくさんある。そう思うでしょう。が、その意見は、何らかの形でニューアースを訪れて、それらを見てからにしておいた方がいいですね。

さあ、私たちの光を世界に降り注ぎましょう。人々は自分が選んだことをやっているのだ、そのことを理解した上で、光で照らしてあげましょう。

ええ、多くの人が、人々は道を見失っている、彼らは痛みを感じているんだ、そう言うのは分かっています。が、私たちは、彼らを救おうとするのではなく、シンプルにこう告げるのです。「さあ、別の可能性がここにありますよ。それはあなたに出来る別の何かです。敢えて道に迷っていなくてもいいんですよ。敢えて痛みを感じる必要なんかないんですよ。エネルギー・ヴァンパイアにならなくてもいいんです。権力闘争に巻き込まれる必要なんかないんです。ほら、あなたが他に出来ることが光によって照らし出されていますよ」と。

さあ、惑星の人間の全員、1人1人に私たちの光を届けましょう。彼らに何も押し付けないでください。目的意識も無しですよ。ただただ光を輝かせてください。

これはレスキューでも治療でもありません。そこに判断はありません。シンプルにこう告げるだけです。「そこに光あれ。見える者には見えるだろう」

(間を置く)

私たちはここ、ハウス・オブ・シャーンブラ、外に開放されたこの場所に集って、人類に向けて私たちの光を放っています。

私たちがたった今行っていること以上の、偉大な奉仕が他にあるでしょうか。これより偉大な奉仕がどこにあるのでしょうか?

(間を取る)

みなさんが後に残していった、かつてしていたエネルギーに関する仕事については、それをする人たちが他にいます ―エネルギー・ホルダー、諸問題へ従事する人は他にいます。貧しい人、困窮した人たちのところへは彼らが向かいます。ええ、もちろん、そういった需要もあるのです。

エネルギー・ホルダーとしての仕事、この領域と別領域の数々、人間と神性との間の重要なリンクを維持する仕事については、それをする人たちが別にいます。そういった人々はほぼ永遠、長い期間、長い時間そうしていて、どこか隔絶された場所にいて、そういったリンクの保守管理をしています。

みなさんの多くも、過去に、過去生でそういった役割、エネルギー・ホルダーや諸問題の解決に従事することをやってきました。しかし今 ―今、あなたは、あなたがマスターになるために、輝けるマスターになるために、そのために長きに渡って計画してきたこの生涯のここに至ってしまったのです。

私たちは私たちの光を、大自然に対して、大空に向けて、惑星全体、その隅々にまでに行き渡らせているのです。

本当に、惑星にとっての、これ以上のギフトはありません。人類に対しての、真に最高の贈り物です。

私たちは宣教師でも何かの使者でもありません。宣教師というのは、興味深いものですね。彼らは、神やイエスの言葉を誰彼構わず、それを望まない人たちのところにさえも持ち込む仕事に美徳を覚えていますね。「さあ、この本を読んで」と言うだけの宣教師の仕事に、大きな美徳を感じていますね。

もし宣教師たちがこう言ってくれていたなら世界はもっと違っていたでしょうね。「分かりますか。もしあなたが変化を求めているのなら、それはすぐ目の前にありますよ」と。しかし彼らは、本とルールと規制と多くの暴力をもたらしただけでした。

違いますね。私たちは宣教師ではありません。私たちは何かの使者でもありません。私たちは単純に、公園のベンチに腰掛けたマスターです。光輝き、その光で、人々に自身に今ある可能性、未来にある可能性を、見せてあげているだけですね。

私はこの仕事が大好きです。たった今、みんなでやっているこれが大好きです。何年も何年も続いてきた議論やレクチャー、その手のものと比較して、この仕事はいくらか楽ですよね。私は、あなたと一緒に公園のベンチに腰掛けているのが大好きなのです。

分かりましたよね。自分の光を輝かせるのは、そんなに難しいことではないのです。あなたの光が何であるか、それが分かった今となってはなおさらですね。あなたがあなたの光と思考の違いを知った今、あなたの意識と脳の活動の違いを理解した今となっては、なおのこと簡単だと思います。

次は、クロワッサン、そしてカプチーノかクリーム入りのコーヒーで迷いますが、そういうのが欲しいところですが、いずれにせよ、私はみなさんと一緒に取り組みます。私たちの光を輝かせます。

分かりますか、ただただ安全な場所にいて、自身を開いて自身の光を輝かせるというのは、最高に気分が良いものです。誰かに侵略される心配はありません。何故なら、誰もそんなことはしないからです。何故か、ですか? 何故って、あなたが何かを変えようとはしていないからです。あなたは単純に、光り輝いているだけなのです。

あなたが世界に光を注いで、その反応があるとすれば、それは世界が光をあなたに注ぎ返してくれることぐらいでしょう。それって、あなたが何かを変えようとして、エネルギーがその自然な作用としてあなたを変えようとする場合と比べて、全く全く違いますよね。

「チョー楽な仕事じゃん」そう思いますね。「公園のベンチに座ってるだけでいいんでしょ」と。ただ、ここへ至るまでにあった全てのことを忘れないでくださいね。試行錯誤の数々、苦難の数々、経験の数々、どうも間違ったと思わしき道の選択、間違った道の先で出会った間違った人たちのことを。ここへ至るまで、結構いろいろありましたよね。

単純に今、ええ、いや、うーん、標準的な人間がいたとして、あなたがそういった人を連れてきて、こうやって公園のベンチに座らせたとすれば、その人にとって、それは物事がただ滅茶苦茶になって、より面倒になるなだけのものになるでしょう。

さあ、大きく深呼吸をしましょう。あなたは光を放つのみです。

分かりますか、そうやって光を放射していると、自然にせよ、他の人々にせよ、それらに関して、全く別の新しい見方が得られるでしょう。

そのことは、あなた自身の印象も違った、新しいものに変えるでしょう。

それは、マインドが思考へ逃避するのを止めて、全てに関してピリオドを打とうとはしなくなったことで、そうなります。

マインドは、よりオープンで、よりセンシュアルです。何故なら、今も意識から来ているからです ―「私は私である全て、、、、」と― そこにはピリオドではなく、4つの点、省略記号があるのです。

観察者でいてください。観察者であってください。たった今ではありませんが、ここから数週間といったところですかね。惑星では何が起こっているでしょうか? 何がシフトしたのでしょうか?

最初あなたは「まあ、我々がこれをしたこととは関係の無い話だよね。やってもやらなくても起こっていたことじゃないかな」そう言うでしょう。が、私たちは十分な規模で一緒にこれをやりました。みなさん、あなた1人でもそれをしました。あなたはやがてこう言い始めることでしょう。「何かが本当にシフトしている」と。

ニュースでこのような言葉、「本日、前例のない出来事が発生しました。通常では考えられないことです。それは突然に起こりました」などと言っているのを耳にしたなら、ニンマリしていいですよ。「私たちの光の影響で、何かが変わったのだろう」で正解です。

科学分野における新しいブレークスルーならこうですね。「やれやれです。誰もこんなことを予想していませんでした。全く不意を突かれたような感じです。完全に予想されていなかった結果です。従来の考え方を無に帰すような発見です」

その種のことを耳にしたなら、「全く新しい、予想外だ」などが聞こえてきたら、ニンマリして、自身を称えて構いません。「光が放射されて、その光が照らし出した結果、こうなったんだ」と。科学的な答えの発見でも、古い社会構造の変化でも、何かがオープンになることでも、何でもです。

こういった言葉、「予想外」「前例が無い」「青天の霹靂」「全く別物」「量子的な変化」などが聞こえてきたら、ニンマリしてくださいね。全部このベンチングが ―プヒュウ!― この甘い甘いベンチングが故のことです。それが惑星で何を果たすのか見ていてください。

あなたはこの今に、それをするために来たのです。

あなたはもう、自分には、自分のために取り組むことは残っていない、そのことを認識します。そんな必要がないのだと。そんなことをしたところで苦痛なだけだと分かるでしょう。

それって、銅像を彫って整形し続けているのと同じです。やめてください。そんな銅像、破壊してください。あなたはマスターになるためにここにいるのです。自身にエネルギーを仕えてさせ且つ、自身の光を放つためにいるのです。単純です。

さて、今日も楽しかったですね。そろそろ帰らなければなりません。アセンデッドマスターズクラブへ行って、早く水晶玉を覗きたいです。私たちで今日やった、集団シャーンブラ・ベンチングの影響を早く見たいのです。どうなるか楽しみです。エネルギーがどんなふうに変わるのか、あるいは完全に変わるのかドキドキです。光が真の変化をもたらしている分野がどこなのかを知りたいのです。

みなさんも同じことをしてくださいね。目も耳もしっかり開いていてくださいね。

では、みんなで大きく深呼吸をしましょう。常に覚えておいてください。創造の全てにおいて、全ては正しい。そこにあなたの光があれば特にそうです。

というところで、友人のみなさん、何人にも侵され得ない領域、アダマスでした。ありがとう。

翻訳: Ito Satoshi


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