Merlin I Am(マーリン・アイアム )シリーズ シャウド8

Merlin I Am(マーリン・アイアム )シリーズ シャウド8

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マーリン・アイアム シリーズ
シャウド 8- ジェフリー・ホップによるアダマス・サンジェルマン
のチャネリング
クリムゾンサークルへ献呈
2021年5月1日
http://www.crimsoncircle.com/

親愛なるシャーンブラのみなさん、アロハ! 私は私である全て。何人にも侵され得ない領域、アダマスです。

あー! 私は今、世界中から集まったみなさん、みなさん全員のことを感じています。あなたがこのたった今にライブでここにいる、あるいは、未来と呼ばれるところにいるとしても、私たちはこの瞬間にいるのです。今から1週間経った後でも、1年、10年と経った後からでさえも、この瞬間のここにチャンネルを合わせることができるのです。私たちは依然として今という瞬間にいるのです。それは、時間の中にいて、また同時に時間の外にもいて、全部一緒にできてしまう、まさにエターナであることの美しさの1つです。

私は深く呼吸をしています。みなさんの全員、1人1人を、その1人1人が何を通り抜けているのかを、人生で何に遭遇しているのかを、感じています。分かりますか、時にそれらが困難であることを私は理解しています。それでも私は微笑んでいます。ハッハ! 笑っています。それは私が無関心、冷淡だからそうなのではありません。私には、それが困難であり、厳しいものであることを理解しつつも、それと同時に、それがあなたにとって、最も忘れられない、忘れることのできない時期になることも分かっているからです。あなたがやり遂げることは分かっています。あなたがやり遂げることは分かっているし、リアライゼーションを受け入れることも分かっていて、なお且つ、あなたが惑星に留まってそこから何年も何年も人生をエンジョイすることも分かっているから、私は微笑んでいられるのです。私はハッピーになれるのです。

私はここであなたに、あなたが存在しているたった今という瞬間、この時期、その数々をしっかりと味わっておくよう、お願いをしておきます。たとえそれが最悪な日でも、辛く苦しいことであっても、狂いそうなほどに退屈な時でも、辛抱が効かなくなった場合でも、そのことを、もう馬鹿になって楽しんでおくよう、ここでしっかりあなたにお伝えしておきます。後なって「あのさあ、アダマス。どうしてあの時、あの状況を楽しんでおくよう言ってくれなかったんだい」そんなことを言われたのではたまりませんからね。そういった経験はほろ苦くはありますが、時にほろ苦いがゆえに美味であることがあるのです。

時として、辛いことばかりにフォーカスが向かう傾向がありますよね。心配したり疑ったり、あれこれしたりと、しかし ―まあ、これは後の方で話すことですが― もうそんなことをしている余裕はないのです。今通り抜けている全ての瞬間をどれも等しく楽しんでもおいた方がいいのです。対処が必要な面倒事の数々 ―カウルドゥラとリンダの会話を聞いていたのですが― カスタマーサービスとされる人たちとのやり取りだったり、お役所や税のことでやらなければならないことがありますよね。それらが時に面倒であったり大変であることは分かっていますが、しかし、それらを良い機会と思って楽しんでおいてください。真に自分自身を受け入れて、それを楽しむと自分にコミットしてください。

私はみなさんの全員に対して、日記なり記録なりを残しておくことを強く推奨しておきます。簡単なメモで構いません。そられは必ずしも退屈なものにはなりません。週に数回でもいいので、自身のことを記録しておいてください。後になってそれを見たあなたは、微笑まずにはいられないと思います。分かりますか、あなたが写真を見返すとして、仮にその写真が撮られた時には、そんな気分ではなかったかもしれません。あなたは、全く興味が無い感じであったか、あるいは実際にそう思っていたかもしれません。何かに苛々していたかもしれません。あなたは諸々に破綻をきたしていたかもしれません。しかし、何年も後にその写真を見ると、あなたは笑みを浮かべずにはいられません。あなたにはそれを見て、自分がどれほどまで遠くに来たのかが分かります。あなたはその時、その瞬間の美しさを目にします。それがどれほど酷いものでも、あなたはその瞬間にあった美を見出して、心が温まるのを感じるでしょう。日記を、記録を自分に残しておくというのは、そういうことです。絵を描いておくのでもいいですね。それが何であれ、あなたはそれを見返して、今という時が最も貴重且つ、かけがえの無い時であったことを理解します― あなたの全生涯の中で最も貴重な時だったのだと。

Past Lives & Wisdom(過去生、そして叡智)

あなたは、この生涯の、その重みだけを背負っているのではありません。言いたいのは、あなたがこの生涯でリアライゼーションに至るというのは即ち、全てのアスペクトが家に帰ってくるということです。アスペクトの中には鬱陶しい者たち、とかく怒っている者たち、あなたに反抗している、そう感じさせる者たちも存在します。あなたはそういったアスペクトたちを家に連れ戻しているのです。あなたには彼らの重みもかかっています。

加えて、過去生の重みもまた、あなたの背中に載っています。本当は、過去生というのもある意味、アスペクトなのです。分かりますか、彼らには彼らの描いた歴史があり、その全ては完了している、というものではありません。違います。彼らはたった今も変わり続けています。あなたがこの生涯でリアライゼーションに至ることを選択しているその結果として、彼らもまた、彼らの生涯で変容を、メタモルフォーゼを経験しています。つまり、過去生の数々もまた実際に変わっていっているということです。ある方向に向かっている船があったとして、その生涯ではその方向へと向かっていたものが、その同じ生涯で、今は航路を変化させているということです。

こう言った方がいいかもしれません。その生涯とは、任意の場所、つまり死で執着となる全ての経験、そのための航路を進む船であったわけですが、しかし今は、2隻目の船があって、その船は全く違う航路を進んでいて、その航路とはその生涯でリアライゼーションへと至る航路であり、その生涯での存在、つまりそこのあなたにもそれが感じられているということです。その存在には突然に何かが変化している、シフトしていることが感じられます。それが何かは分かっていません。それを本当の意味で理解してはいませんが、突然に全く異なるルートへ移ったことは感じています。

ある意味でそれとは、物事を実際に様々なやり方で経験してみている、というのと同じです。その過去の生涯にはその生涯として取った、取るべきルートがあったものの、それが今は複数のルートを取っているのです。それは物事を様々なやり方で経験を 全て一度にやっている ―もはや、ただ線的にだけやるのではなく、実際に複数を、それぞれ様々なやり方でやっているということです― そしてその生涯、過去生には何かが起こっているのが感じられています。その過去生には分かります、そうですね、それが天使や神、何かの存在によるものだと分かっています。いずれにせよ、その過去生はふとした瞬間、何かが目覚めていると、進むコースが変わっていると、感じます。

その過去生は、時に、恐れを抱きます。起こっていることに関するとても奇妙な夢を見ます。その過去生は混乱します。その生涯でそのことを話せる相手はどこにもいません。それでもその過去生は、たった今も魂の階層で何か壮大な、記念碑として残るような何か、自身の進む方向を完全に変えてしまう何かが起こっていることが分かっています。それが今起こっています。そしてあなたはその重みも背負っています。しかしその重みは、その生涯の美しさでもあるのです。

ここで少し止まって、考えてみてください。全ての過去生がその生涯での彼らの歩み、道を完全に変えていっているその時に、あなたは目覚めを通り抜けてマスターを体現する者へとなっていく、リアライゼーションへと入っていく、それがいかに美しいことかを考えてください。あー、そうですね、時にみなさんは、通り抜けているその全てがまるで泥の中か何かを通り抜けているかのように、とてもスローだと感じますね。しかし、あなたには、そういった全ての過去生たちのこともあるのです。あなたには彼らのことを、そして彼らが通り抜けていることの本質、その壮大さを感じられます。そうしてあなたは、あなたの生涯の全ての中から選ばれ、アセンションすることを指名された者として、その壮大さを認識し、この瞬間の美しさを理解するのです。この生涯はあなたにとって、リアライゼーションするために這いつくばり、苦闘するための生涯ではありません。全くもって違います。これは、全ての生涯全体としての進化のための生涯です。魂のレベルでの変容、叡智の変容、今というところに叡智を持ち込むための生涯なのです。

叡智は魂に流れ込んでいて、今のあなたにはその叡智にアクセスすることが可能です。

そのことは、これまでには目にすることのできなかった多くの、可能性の数々を開きます。あなたがそれに対して目を塞がれていた、過去生でもまたそうであった、そんな可能性の数々を開きます。それはあたかも、輝ける新しい太陽が、可能性の森を照らしているような感じです。あなたは何でも選ぶことができるのです。それが今起こっていることです。それはあなたの今のエネルギーでも同じです。それは管轄外にある何かでも、離れている何かでも、馴染みのない何かでもありません。エネルギーはあなたに仕えるために隊列を、編成を組み直しているのです。

それが起こっているのです。お願いします、お願いします、私がそうお願いするのはそれが理由です。私のために、そして、あなたがアセンデッドマスターズクラブへ来た際に披露するストーリーのために、どうかどうか、この瞬間、全ての瞬間、瞬間瞬間の全てを残らず楽しんでください。あなた的に良い時も悪い時も、みんなみんな味わってください。何故なら、結局のところ、それらは悪い時ではなかったと分かるものだからです。全くもって悪い時ではありません。それは単に、人生における、デコボコを道を通らざるを得ない、変化であったというだけなのです。そして、あなたにも分かっているとおり、それは全て、私が allowing と呼んでいるワンダフルなものにかかっています。みなさんがこの「allowing(許す、受け入れる、信頼して委ねる)」という言葉にうんざりしているのは分かっていますが、あなたが本当にallowするまで、私はこれに言及し続けるつもりです。

Allowing(受け入れて委ねる)

今のあなたに起こっていること、その全てはこの時期に起こることとして自然なことです。リアライゼーションをするのは人間ではありません。人間はそれに向かうこと、通り抜けることがどんなものか、その経験を選択することはできますが、それをやることはできません。叡智を今の暮らしに持ち込むことも含めて、全て、あなたがしている全ては、それを受け入れて、後は委ねるだけなのです。委ねるのです。あなたは Allowing と呼ばれるものに取り組んでもいません。あなたはただ、委ねているだけなのです。それが自然な有り様です。あなたが通り抜けているその全てが自然なことです。あなたは遅かれ早かれ、着くべき場所に着くわけです。

全てを受け入れ信頼し、委ねていることで、あなたは本当の意味で、あなたの魂と接続できます。既に起こっている変容を受け入れられます。それはあなたがそのことをたくさん考えたからでも、瞑想を行ったからでもありません。あなたがそれを受け入れ、それに委ねたから、そうなのです。最近のシャーンブラとのギャザリングでデモンストレーションとして披露したことですが ― やっぱりシャーンブラが戻って来るのはいいですね― 最近のギャザリングで allowing を少しでもよく理解する助けになればとやったことです。小道具を使いました(アダマス、傘を取り出す)。

単純な話です(アダマス、傘を開く)。これは allowing ではありません。受け入れても委ねてもいません(アダマス、傘を閉じて)。これが Allowing す。受け入れています。委ねています。

もうこれ以上、傘をさす必要なんかないのです。自分自身から自分を守る必要などないのです。あなたは傘を(傘を開く)ずっとずっと長い間、こうしていて、何からかなのか知りませんが、自分のことを守ってきました。どこか別の場所にある、どこかの何かのエネルギー、そう思っていたエネルギーから自分の身を守ってきました。あなたは自分の魂に対してでさえ、こうして防御をしてきましたし、それは人類の意識に対しても同様でした。あなたは自分が外から見られないように隠してきました。

受け入れて委ねるとはこういうことです(傘を閉じる)。こんな傘なんかいりません(傘を投げ捨てる)。ただ受け入れて、委ねていればいいのです。あー、そうですね、無防備に感じられますね。でも、何に対して無防備なのでしょうか? あなたに対してだけですよね。あなたの魂、あなたのエネルギーに対してだけがそうですね。傘を捨てたあなたはこう考えます。「さて、今に雨が降り出すに違いない。アダマスの言うとおりにしたその顛末を見ようじゃないか。雨に雷、落雷だってあるだろう」と。ここで言う雨とは本当のところ、雨ではありません。それは単なるあなたの見方、受け止め方です。その雨は実際には、あなたの魂の雲からもたらされる叡智なのです。その雨に打たれたところで、それは冷たくもなく、濡れることもありません。それは美しいブランケットのようにあなたを暖かく包み込み、あなたにあなたであることの自信を与えてくれるものなのです。

落ちてくるその雨、あなたが雨だと思ったそれについて、あなたはこう理解するでしょう。「落ちてくる雨の水滴、1粒1粒が、人生の中で選ぶことのできる可能性の1つ1つだったのだ」と。あなたはそれが全くもって雨ではないことを認識します。それは魂だったのだと。人間の3Dの現実にやってきた自分の神性だったのだと。それは叡智であり、エネルギーであり、可能性であったのだと。それはここに現れたマスターの全てであり、あなたは、はたと認識します。「これは雨じゃない。これは自分が自分に向けて放った光だ。これは実際自分の過去であり未来であり、今それが自分に向かってやってきている。それがたった今、ここに集結しているのだ」と。そしてあなたは、にもかかわらず、自分はそれをずっとずっと雨だと考え、それから自分を守ろうと、自分を保護しようとしていたのだと認識し始めます。あなたは自分を守るために覆いを被せていたのです。そして今、あなたは大きく深呼吸をして、傘を捨てて受け入れます。そうして受け入れて委ねることで、見方、受け止め方が変わります。

きな臭い、嵐の雲だと見ていたそれが、実は暖かく、快適な、魂からの思いやりであったことが分かります。雨粒であり、冷たく、身体を押し返す風である、あなたがそう考えていたそれらは、あなた自身から出た光でした。その光、光線の全てがここに、あなたのところに向かっています。それが allowing です。傘をどけるのです。それが allowing です。大きく深呼吸をして、自分に自分を開くのです。それが allowing です。

進むべきコースを予め把握しておく必要はありません。理屈を解き明かす必要もありません。その全てがどう起こるのかを理由付けする必要はないのです。それは起こることなのです。あなたに出来るのはその美しさを経験することだけなのです。ええ、そして、時には困難なこともあるでしょう。しかしそれでも美しいはずです。あなたはそれを受け入れ、それを経験できるだけなのです。あー! それが出来るということ、たった今の経験のただ中に意識的に気付いていられること、その喜びで魂は満たされます。大変刮目すべきことですね。それがマスターです。はい。

そのことを少し感じてみましょう。

はい。私はこれに関して、とてもとても熱心です。あなたを見ているがゆえに熱心にならざるを得ないのです。私はあなたの過去生が変容しているのを目にしています。彼らはもう前と同じではありません。私は、あなたが未来生と呼ぶ未来、それは本当は未来ではありませんが、それらがどう変わっているのかさえも見ています。全てがこの生涯のたった今、たった今のあなたに向けて収斂しています。時にあなたはそのことを忘れます。あなたの意識から外れます。あなたは自分自身を疑います。自分は何をしているべきなのだろうかと迷います。そして自分に対して厳しく当たりますね。パッションはどこにあるのか、どうして物事が上手く行かないのかと迷います。そうなるのは、あなたが、あなたの周囲で起こっているこの全て、神性としての経験、その瞬間、その今にいないからです。

そういうストーリー、あなたがアセンデッドマスターズクラブで話すとして「何が起こっているのか検討もついていませんでした。私は何もかも見失っていて、何が起こっているのかまるで分かっていませんでした。それでも起こりました。私は認識に至りました」みたいなストーリーになるようなことはしないでください。

「私は私のリアライゼーションへ、マスターへ、マスターを体現する者として惑星に留まる、そこへ至る全ての瞬間に気付いていたよ。私は自分のエネルギー、可能性、叡智に完全に気付いていたよ」というストーリーにしてください。

さあ、大きく深呼吸をしましょう。

情熱的にならざるを得ませんよね。私はここに聴衆が戻ってくるのを待ちきれません。みなさんの目の前にいられるその時を待てません。ま、つまり今も、ある意味ではみなさんの目の前にいるわけですが(カメラに接近する)、私は物理的に顔を合わせたいのです。あー! いいですね。

ところで、イーサのリンダさん。

リンダ:あら、どうかしたかしら?

アダマス:最近、どうだい?

リンダ:イケてるわ(pretty good)。

アダマス:おおおー!(リンダ、笑う)いやあ、なるほどね! えっと、なんて言ったかな?

リンダ:エクセレントってこと。最高よ。

アダマス:素晴らしい。そうだね、特段愚痴を言う要素は無いわけだ。ただ「イケてる」はあんまり良いとは思わないね。私的には「絢爛(grand)」が良いね。だよね? 言えるかい?

リンダ:絢爛たるものね!

アダマス:ありがとう。そうだね。やれやれ、君は「何かしら? これ以上期待されても困るわ」って顔で私を見てるね。絢爛であってくれてありがとう。

Ensync – Flow Physics(エンシンク – エネルギーの流れに関する物理)

では、今日の議論をこれより先に進める前に、前回のシャウド、セッションでやった内容について少し話しておきましょう。前回、エンシンク状態であることについて話しました ―e-n-s-y-n-c― です。自分とエンシンクすることです。自分のエネルギーとシンクロするという意味です。エネルギーはもう、どこか向こう側にあるものではない、そういう地点に達したわけです。全てはここにあるのです(胸を指す)。このことに関して、最初はあまり馴染まない感じがするかもしれまん。それがある時「いや、くそ、エネルギーは自分のものだ。もうそれを受け入れて、それに委ねておくしかない。傘なんかさしている場合じゃないぞ」と認識します。―で、リンダさん、何が必要になるか分かりますか?

リンダ:さて、何が必要でございますか?

アダマス:シャーンブラ傘が欲しいね。クリムゾンカラーの。

リンダ:なるほど。それが?

アダマス:鮮やかなクリムゾンカラーで「シャーンブラ」とプリントされていてもいいかもだね。そうすればシャーンブラたちも家で練習ができるだろうから、、、

リンダ:なるほど。

アダマス:、、、その傘で練習ができるわけだよ。

リンダ:違いないわ。

アダマス:そうだね。うん。

リンダ:そうね。

アダマス:このアイデア、実際、悪くないと思ってるよね。

リンダ:そうね。メモしてるわよ。

アダマス:いいね。いや、書いてないね ―書いたふりをしただけだね。本当には書いてないね。シャーンブラ傘だよ。かなり良いアイデアだよ。もっと早く思い付いていれば良かったな。それがあれば、、、

リンダ:それをどうみんなに配るのかしら?

アダマス:さあ ―それを考えるのは私の仕事じゃないよ。それは、分かるね、方法はあるよ。受け入れて、委ねていればいいんだよ(アダマス、笑う)。私には分からないね。おわっ! これは言っちゃいけなかったね。

シャーンブラ傘だよ。この話ばかりになるから先へ進むけど。ちなみに「分かりません」帽子はどこにいったかな? コロラドに置いてきたかな、多分そうだね。さ、話を先へ進めよう。

リンダ:私は「分かりません」なんて言ってないわよ。

アダマス:違うよ。私が「分かりません」を言ってしまったんだよ。

リンダ:あら。

アダマス:君は気付かなかったけどね。スタッフは気付いてたよ。彼らはみんな息を飲んだよ。その中の2人なんて、息が詰まって気を失ってたよ。

リンダ:私はあなたに寛容であろうとしてるのよ。

アダマス:(笑って)寛容であろうとしてる、か。そんなに難しいかい?

リンダ:そういう時もあるわね。

アダマス:本当かい?

リンダ:時々あるわ。最近、ずっとマシになったけど。

アダマス:君が言ってるのはカウルドゥラのことかい、アダマスかい?

リンダ:あら。区別する必要があるかしら?

アダマス:両方ってことだね(リンダ、笑う)。And てことかもしれない(彼ら、笑う)。

はい、続けましょう。あなた自身のエネルギーとエンシンク状態にあることです。エネルギーと調和しているということです。自身のエネルギー、その恩寵、恵みの中にあるということです。

これまでは、エネルギーに関してあなたは、浮き沈みがあり、ある意味で隔たりがあって、本当の意味では自分自身の一部ではない、そのように感じてきたと思います。しかし、あなたが自身のエネルギー、その流れ、その力学に立ち返ることができたなら、全てはスムーズに運びます。エネルギーの流れにはそういう物理、物性が働いています。

そこには、それとしての自然なリズム、エネルギーの流れがあるのです。そしてそれは全てあなたのものです。つまり、そこには特定のビートもサウンドもないわけです。最近は自分がその流れにある、それに運ばれていることが分かりますよね。全てがなんだかんだで上手く行きます。あなたは頑張る必要もありません。ただそういうことが起こっているという状態です。誰かがあなたの進む方向にレッドカーペットを広げているように、全てがなんだかんだで上手くいきます。そういうことが時々ありますよね。ただ、そうでない日、良くない日もありますね。何もかもが上手くいかない。全てがシンクロしていない日もありますね。そんな日は一生懸命やろうとすればするほど、状況は悪化します。問題が1つあったかと思うと、次から次へと大変なことになるわけです。そんな日は、早くとっとと終わってくれ、そう思いますよね。

あなたが今そうやって経験しているのは、ある種の切り替えの一部です。どこかの何かにある、そういうエネルギーとの古い関係を、今は自分自身のものへとターンオーバーしているところなのです。そんな中で、時にエネルギーと共鳴できていないと感じるようなことがあるのです。エネルギーが激しくアップダウンしたり、途切れ途切れのことも起こります。ただ、それはすぐに収まって、あなたは、ただ流れるあなたのエネルギーとしての新しい流れ、その物理に従い始めます。朝、目を覚まして、クレージーな夢を見たかもしれない、そう感じることがあると思いますが、それは今の時期としては起こって然るべき内容です。あまり良い気分ではありませんね。その際には、大きく深呼吸をして、あなたのエネルギー、その流れの力学に返ってください。あなたのエネルギーには優雅さがあります。大きく深呼吸をして、それをただ受け入れ、委ねてください。傘を閉じて、その流れに身を委ねてください。そうしようと考えないでください。自分にストレスをかけないでください。ただ委ねてください。

分かりますか、考えるというのは受け入れる、委ねるということのアンチテーゼにあたります。考えること、委ねること、それは水と油です。両者が一緒に上手く機能することはありません。なので、あなたのエネルギーとしての流れ、その力学、優雅さ、レッドカーペットがあなたの進む方へと広がること、そこへ返ることをただ受け入れてください。そうしていると、あなたは、その流れ方の物理、あなた自身に関する物理に関して、とても精通し、そのことに関して心配することは本当になくなります。それは常にただあります。時にあなたは脱線してしまうこともありますが、大きく深呼吸をして、その物理に返るだけです。それだけで物事は遥かに、遥かに、簡単に進みます。

Supersensory(超感覚)

前回のギャザリングで言ったとおり、ある種、上記に呼応するものとして ―超感覚、があります。あなたが傘を閉じて、あなた自身の流れに返ると、あなたはより敏感になります。全てのレベルにおいて、より気付くようになるでしょう。私たちは流れというもの、そのことが持つ美しさについて話しますが、そこで大変な要素として、感覚の発達が挙げられます。あなたは全てに対してより敏感になるのです。その初期段階として、例えば、こまれでには一度もなったことのないアレルギー反応が出るかもしれません。何故なら、今のあなたは空気中の物質、植物や花にさえも、かなり敏感になっています。しかしその多くの場合は、空気の汚染によるものであり、加えて私が人間アレルギーと呼ぶものもまた原因としては多いでしょう。他の人間たち、彼らのエネルギーはみなさんにアレルギー反応を引き起こします(リンダ、笑う)。いやいや、真面目に言ってるんだよ。草花やそういったものよりも、人間の方がよりアレルギー反応を引き起こすんだよ。

リンダ:うわ。

アダマス:あなたは人々のエネルギーを感知します。そしてより彼のことに気付きます。みなさんの中には、それを拒絶して「切り捨てるよ。彼らとは全く合わない」そう言いたい人がいますよね。しかしあなたがより、あなたという流れの力学に入ったなら、より、拒絶しなければならないこと、そういったものが減ることが分かるでしょう。究極的には、それも全て実際は、あなたのエネルギーなのです。それでくしゃみをしたり、目を痒くする必要などないのです。それは受容として、素晴らしいレベルに位置しています。

あなたは思考に対しても、もっともっと敏感になります。思考は電波のように、その辺りの空気中を漂っています。あなたはそういった思考に対してより敏感になっていきます。その種の敏感さに達すると、最初のうち感覚は、よりドラマへと向かいます。何故なら、ドラマには、単にスーパーへ買い物へ向かっている人のそれよりも、力学的に強い力が付帯しているからです。よってあなたは、恐れを拾い上げたり、誰かのドラマ、怒り、憎しみなど、そういったものを拾い上げます。あなたはより敏感になり、世界の重みをより感じ取るようになるのです。何故なら、あなたは集合意識にもまた、より敏感になっているからです。

しかし、そうなってあなたは理解します。「今のは、私のものじゃない。自分のものでないものに、気付いているだけだ。私は自分のものではない向こう側のエネルギーに気付いているけど、あれに影響される必要はない。私のエネルギーの自然な流れを、あれに阻害させる必要などない。私はあれに気付いていられて、しかしあれに混乱されることはない」と。

そこからある地点で、全てに気付いていること、その状態であることが楽しくなります。あなたのエネルギーについては無論ですが、他の人たち、彼らのエネルギー、魂を持つ存在としての彼らに関して、それがあなたを完全に混乱させるであるとか、あなたを歪めやしないかと、心配することがなくなります。それは一種の楽しみに変わります。あなたは評価、判断無しでオープンに、人々のエネルギーを感じられます。観察として、あなたは人々のエネルギーを感じ、そしてその人が本当はどういう人であるかについて、彼らが話す言葉でも、顔の見た目によることもなく、非常に正確に知ることができるでしょう。あなたには正確にそれが分かるようになるのです。楽しくなるのはそこですね。すごく気付いていて且つ、本当にそれは自分のエネルギーの中にはないと分かっている。あなたは敏感ではありますが、その域を超えた敏感さを有するのです。

あなたは、あなたが別領域と呼ぶものに対しても超敏感になるでしょう。別領域とは全部この周りにあるのです。どこか別の所にあるのではありません。いずれにせよ、あなたは幽霊やオバケにも気付くようになっていきます。しかしあなたが彼らに悩まされることはありません。彼らは、あなたが彼らに騙されて自分を疑わない限りは、あなたに対して何も手出しができないのです。あなたをがっつくことができません。彼らにはあなたの足を食いちぎることもできません。あなたを悪魔の住まう地獄へ連れて行くことも不可能です。あなたはただ、こう思います。「あーあ、今の惑星地球にも、成仏できず徘徊してる輩がこんなにたくさんいるんだなあ」と。そういったエネルギーはたくさんあります ―古い屋敷に入ると、50年前、あるいは200年前に、そこに住んでいた誰かのエネルギーがあったりします。

それってある意味、楽しいですよね。超敏感になるのは楽しいのです。あなたはその感覚をコントロールできるのです。そのことさえ覚えておけば ―さっきの言葉は良くないね、カウルドゥラ― あなたは超感覚のスイッチをオフにできます。あなた自身、スイートな存在であるあなた自身、自分だけでいたいと望むなら、いつでもその感覚は脇へ置いておくこともできるのです。

Ensync and Supersensitive – Allowing it ALL(エンシンク、超敏感であること – 全をて受け入れ委ねてしまおう)

では、本日の本題に入る前に、深呼吸をしましょう。音楽をかけて、自分自身とエンシンクした状態、超感覚的な状態であることを感じましょう。

(音楽、流れる)

私には、みなさんが今どうであるか、近々どうなっていくかが分かっていて、それで今日の内容を持ち出しました。エネルギーに浮き沈みがある、そんな状態であることは分かっています。

みなさんは今、エネルギーが何であるかが分からない、という永遠にも思えるような長い時を経て、大きな変化を遂げようとしています。「エネルギーって何だ?」それに対する回答を、地球に来るにあたって、天使たちは探していました。「エネルギーと呼ばれるこれは何なんだろう?」それは永遠と言えるほど長い長い探求でした。

そしてあなたは今、この生涯でその力学を変えています。とてもビッグな生涯ですね。

なので、はい、時にガタガタと揺れることもあるでしょう。何故ならあなたは、あなたのエネルギーに関する全てを、逆転させて、ひっくり返しているからです。

エネルギーに対する向き合い方、考え方、あなたのエネルギー、その流れに働く物理を、あなたは今、変えています。

記念すべき出来事です。ええ。私が、お願いだからどうかどうかと、毎日の経験を楽しんでくださいと、そう言っているのはそういうわけです。経験を操作するのをやめてください。

通り抜けていることを楽しんでください。そうすることが、本当の意味で大きく ―エネルギーとの新しい関係性を築き、発展させることになるのです― そうしていればすぐに、あなたには、エネルギーを自分のためにどう働かせるかが、頭で分かることでしょう。

それは思考を使って行うものではありません。ポジティブなアファーメーションですか ―ペッペッ!― によって行うのでもありません。あなたには、エネルギーがあなたの望みや情熱に対して、どう仕えるかが、ただ理解できます。

小事のことは知りません。しょうもない物事のことで、時間を無駄にするのはやめてください。今話しているのは、本当の望み、本当の情熱に関する話です。どうせ全ては、落ち着く場所に落ち着くわけです。

あと数ドル多く稼ぐ、そんなしょうもないことを目的にエネルギーと時間を無駄にしている人たちは、蔑まれても文句は言えないですね。だって全ては自然に、ナチュラルに起こることで、そんなことをしても全く無駄でしかないわけですから。

最近のセッション等でいろいろ話した中で、人間は硬貨を求め、マスターは財宝を受け入れる(the human desires a coin, the Master allows a treasure)ということを言いました。人間は、あと数ドル、数ユーロ、数ペソ、数円のことを心配して、エネルギーを無駄にします。素晴らしいものであるはずのエネルギーと時間の無駄でしかありません。非常に制限されています。

マスターは、金銀財宝の全てをただ受け入れます。全てを全部、受け入れます。小さなことは心配しません。何故なら、それもまた、その物理に従った流れの一部だからです。それはただあるのです。あるべくしてあるべきものは絶対にあるべくしてあるのです。

マスターは財宝の全てを受け入れます。財宝の全て ―それはもちろん、物質的な物ですよ。物質的な豊かさです。そして健康でもあります。それはまた叡智、喜びでもあるのです。マスターは全てを受け入れます。全ての宝を受け入れます。それを制限せずに受け入れます。

そしてあなたはこの変化、反転、ターンオーバー、大改装、旋回の時、好きなように呼べばいいと思いますが、その時である今、ここにいるのです。あなたはそのど真ん中にいます。

それに加えて、あなたはとても敏感になっていっています。それらは並行して起こるものですが、両者は時として互いに反抗するように機能している、そのように見えることがありますが、実際そうではありません。違います。それは、あなたが単純に、自分のエネルギーとどんどんエンシンクしているせいで、より敏感に、より気付くようになっているだけなのです。

さあ、大きく深呼吸をして、あなたの人生で今いる場所、あなたが通り過ぎているものの本質、その大きさについて感じましょう。

いいですね。さあ、大きく、ゆっくりと深呼吸をしましょう。まだ話すことはありますよ。

(音楽、終わる)

いいですね。

Story Time(ストーリー)

シャーンブラのみなさんが恋しいです。みなさんに会いたいですね。シャウドの聴衆が恋しいです。私は、ダンボールの切り抜きで作ったみなさんをシャウドに置いておくことを提案したぐらいです。そうすれば会場がいっぱいになっているように感じられますよね。私は、みなさんと直接やり取り出来ることを心待ちにしています。ここでみなさんをおだてたり、怒らせたり出来ないのが残念です。ユーモアが無いのも寂しいですね。ああ、私はユーモアをとても待ち望んでいます。みなさんがこの場にいない状況でユーモアを発揮するのは難しいです。だって、ユーモアは往々にして、みなさんの誰かが犠牲になって出てくるからです。なので、この状況でユーモアをどう発揮すればいいのでしょうか? 私が自虐しましょうか? 私にはそれが機能するとは思えません。大して面白くありませんね。

私は、分かりますか、シャウドでスタジオに50、60人のみなさんが集まっている、そのエネルギーを楽しんでいるのです。それは、PCの前に座る他の全員を引き寄せるようなエネルギーです。シャウドの際には、ここに来た人が彼らを繋ぎ止める錨となって、結果、彼ららはここに集まってくるのです。で、この今の形になってどのぐらいになりますかね? 1年か、もう少し長いですかね、聴衆無しでやっています。ワークショップでは最近、はい、人を入れてやっているので、行き場を失っていた情熱、シャーンブラを切望する気持ちが強いあまり、ここ最近のいくつかのグループに対しては、やり過ぎたと思っています。思うに、彼らに対して、ちょっとやり過ぎだったかもしれないね?

リンダ:かもしれないわね。

アダマス:かもしれないね。そうだね。ただそれは、シャーンブラに戻ってきてほしいという、深い願いがゆえなんだけどね。で、今日はまた聴衆無しでやってるね。さて、どうしようか? どうすればいいんだろうね? だって、、、

リンダ:いいわよ。私を虐めなさいな(アダマス、笑う)。

アダマス:リンダ、私はやり過ぎたくはないんだよ。君に消えない傷を負わせようとは思わない。だから、しないね。今だとやり過ぎになるからね。というわけで、私は今からやることのために、ちょっとした劇用の小道具を作ったんだ。

リンダ:あら、そう。

アダマス:ところで、みなさんの誰しもがあらゆるタイミンで使用可能な、演劇で使うような小道具を持っています。お尻のポケットからいつでも取り出して使うことが可能です。そういった小道具は素晴らしいもので、実際にエネルギーが流れていくのを後押しします。何故なら、それで頭の中から出られるからです。その時のあなたは、ただ演じているのです。だから、はい、私も、多少劇的にする装置、工夫が必要でした。というわけでストーリーを語ります。

リンダ:了解。

アダマス:マスターのお話です。

リンダ:当然ね。

アダマス:話としては毎度お馴染みの ―「マスターと○○」で― 今回は、そうだね「マスターと質問をする生徒たち」だね。なので、君はマスターを取り囲んでその話を聞いている生徒たち、全員の役をやってもらおうかな?

リンダ:(情熱的に)おお! 喜んでやらせてもらうわ。私には優等生だった過去があるわ。

アダマス:いいね。素晴らしい。というわけで、君は生徒たち全員だ。

リンダ:ええ。

アダマス:私がマスターの役を演じるよ。

リンダ:それはびっくりね。

アダマス:私にとっては簡単なことだよ。何も頑張る必要がない。

リンダ:そうね。

アダマス:私がマスターの役をして、私たちで質問だらけのストーリーを語るんだ。君は、、、

リンダ:了解。

アダマス:、、、聴衆が戻ってきたような感じで、生徒として質問する。

リンダ:ええ、分かったわ。

アダマス:よし。なら、始める前に、一緒に大きく深呼吸をしよう。

リンダ:(大げさに深呼吸をする)ええ、いいわ。

アダマス:では、マスターのストーリーです。もう1度言っておきますが、私はマスターのの役を演じます。リンダは複数の生徒たちの役を演じます。

リンダ:オーケーよ。

“The Master and the Questioning Students”(マスターと質問をする生徒たち)

アダマス:美しい夏の日の午後、マスターは大きな樫の木の、その木陰に椅子を持ってきて腰掛けていました。その周囲には20名ほどの学生が集まっています。それは正規の授業ではなく、マスターと生徒たちが時々行う、カジュアルな集まりでした。生徒たちは本当に、その集まりを楽しみにしていました。何故なら、それは教室の外で行われるため、普段よりも気楽でいられる、張り詰めたものではないからです。

生徒の中にはその集まりを冗談交じりに「禅・禅ではない」ギャザリングと呼ぶ者もいました。何故なら、往々にしてこの集まりは、まずは大きな大きな、禅問答のようなところから始まって、その勘所が認識されるや、禅では無いものになるからです。

マスターは彼の椅子に腰を下ろして、コーヒーを飲んでいました。で、えっと、ストーリではなく実際のことに関して言うなら、これはコーヒーじゃないね。分かってると思うけど、ちょっと残念だね。

リンダ:私のせいじゃないわよ!

アダマス:ちょっと残念だよ。マスターはコーヒーを飲みました。

リンダ:コーヒーを持ってきた方がいいかしら? 準備できるわよ。

アダマス:いや、大丈夫だよ。心配いらない、、、

リンダ:全然、大丈夫じゃなさそうね。

アダマス:気にしなくていいよ。大丈夫。大丈夫だよ。

マスターは座って、コーヒーを一口すすりました。それは、ある生徒がとても良く気を効かせて、マスターが頼んでいないにも関わらず、持ってきてくれたものでした。生徒たちは、マスターが望むものをいつもいつも、察知していました。というのがヒントになったかな。なってないかな。

リンダ:今、準備するわよ。

アダマス:生徒たちと一緒に大きく深呼吸をしてから、マスターは言いました。「今日、私たちは、哲学的な議論の中でも最古のものの1つで、決して結論の出ることなかったものについて話をするよ。君たちが旅の中で経験していることと、それとの関係について議論をするよ。今日、私たちは幸福について話していく」

リンダ:おお。

アダマス:幸福についてです。「では訊こう」マスターは言いました。「幸福というものに関して、君たちそれぞれ、個人個人のレベルにおける幸福を感じてみてほしい。幸福とは何だろう? それは達成することが可能な何かなのだろうか? それは切望されるようなものだろうか? この質問自体、哲学的で無意味な議論になるだけのものだろうか? 今日ここにいる全員に、幸福について感じてみてほしい。君は幸福かな? 幸福であることは重要なことなのかな?」

(間を置く)

それから何分かしたところで、マスターのコーヒーカップが空になったことに1人の学生が気付き、コーヒーの入った新しいカップを持ってきました(アダマス、笑う)。無論、ベストなタイミングでです。新しいコーヒーが差し出されて ―オホン― あー、来たね(コーヒーが届く)。

リンダ:魔法ね! こうなるって誰か分かってのかしら?

アダマス:感謝するよ。

リンダ:分かってた人がいるのよね?

アダマス:私のニーズを予期していてくれて感謝するよ。新しいコーヒーが運ばれてきました ―美味しいね。リンダ、ちょっと頼むよ(リンダ、砂糖を入れる)そうそう― マスターは言いました。「では今から、君たちが幸福に関して抱いている疑問、質問を受け付けるよ」オホン。オホン。

リンダ:そうね、そうするわ!「マスター、私たちは幸福になるべく、努力をしているのでしょうか?」さあ、もう1つコーヒーフレッシュを入れるわ。

アダマス:「幸福になるべく努力をしているか? だね」マスターは言い、コーヒーをすすると、ニーチェがかつて言った言葉を口にしました。「人間というものは幸福になるべく努力をしない。人間は実際、いつもそれに明け暮れているイギリス人を除いては、誰も幸福のためには努力をしない」

その言葉でニーチェが何を言いたかったのかは、はっきりとは分かりませんが、基本的に人間は、幸福のために努力はしません。人々は幸福については考えます。幸福は好ましいものだと考えてはいるでしょう。が、彼らは日々の暮らしに忙しすぎて、幸福を最優先にはできていません。彼らはお金を稼ぐこと、子供の世話、仕事での問題を解決するのに忙し過ぎるのです。「ノーだね。人間は幸福のためには努力をしないよ」マスターは言いました。そうして次の質問を促しました。

リンダ:「マスター、富と名声は幸福をもたらしますか?」

アダマス:ふむ。「富と名声だね。富と名声は、幸福を追求する中で発生するものだね。たとえば、ある者はそれが幸福をもたらすと考えて、さらなるお金を得ようとする。ある者は、名声や人々から認められることが幸福への道だと考える。しかし究極的に幸福とは、幸福であるかどうかだけだよ。幸福には富も名声も必要ない。分かるかい、それらは単に幸福の追求というだけのもので、必ずしもそれらを得た結果として幸福になるかは分からない」

「違うね。違う。他のものを差し込める余地はないよ。幸福はそれ自体で成立するものだよ」

「幸福とは本当に、人々が言うようなゴールや目的地ではないんだよ。幸福にそういう言葉を当てはめてしまうと、いよいよ捉えられなくなるだろうね。幸福とは全ての瞬間にあるんだからね。だから私は、私の生徒たち、君たちの全員に、この学校にいる毎日がそうだと言ってるんだ。苦しい日も楽な日もあるだろう。しかし全ての日はそれ自体で幸福なんだ。たとえ、最も苦しい時であってもね。そのことを理解するためというのも、君たちがここにいる理由だよ。幸福とは、自分がどこにいるのか、どうしているかの判断、評価ではない。そのことを理解するため君たちはここにいるんだよ。経験を通り抜けて、それがそもそも幸福であると感じることが目的だ」

全員が彼の偉大な、偉大な叡智の言葉を反芻できるように、マスターは少し間を置きました。彼は、閉じた目の隙間から、生徒の何人かが眠そうにしていることには気付いていました。マスターがやりそうなことですね。

彼は次の質問を受け付けました。

リンダ:「マスター、論理的な根拠を積み上げることで幸福は達成されるでしょうか?」

アダマス:その時、マスターの目が見開かれていたのなら、この質問にマスターが苛立ったことが分かったはずです(リンダ、笑う)。「根拠を積み上げて、幸福を得ることができるか?」だね。

マスターは、苛々が声に入って、不愉快そうにならないよう、大きく深呼吸をしました。「一時的になら、できるね。一時的になら、思考と理屈を駆使して、幸福であるという幻想は作れるよ。銀行にお金があるからと自分に言い聞かせる。子供が自分のことを愛してくれている、だから、と言える。他の多くの人々よりも自分は成功している、自らが立てた人生のゴールをとおに越えたところに位置していて、一定量の、私的には偽りの幸福、シュガー的幸福がもたらせている、そう自分に言い聞かせることは可能だろうね。でも、違うんだよ。究極的に、究極的には、真の幸福、人生にやってくるリアルな幸福は、そういうものから来るのではない。それは魂からやってくる。魂からやってくるんだ。真の幸福とは、自分は自分のパッションの中にいて、パッションに付き従っている、そうと分かっていること、自分は自分自身を許し、受け入れている、そうと分かっていることなんだよ。そういうのが肝心なんだ」

マスターは再び目を閉じました。聴衆から次の質問が出るのを待っていました。

リンダ:「マスター、私の育った家庭は不幸です。それは私の運命でしょうか?」

アダマス:不幸な家庭で育ったその生徒にとって、それは大きなことでした。「ことわざがあるね」マスターは言いました。「『将門に必ず将あり』『蛙の子は蛙』」

「幸福の50%は、文字通り、君が生まれた瞬間の遺伝子に組み込まれている。それは、家系の遺伝子として受け継がれているもので、それが、そのぐらい大きな影響度で、君の幸福になれる能力、その人生で自身の幸福にどの程度気付けるかに関わっている。君の両親が不幸ならば、確率的に君もまたそうなるだろう。君は彼らのエネルギーを拾い上げているからね。つまり君はこの生涯で、不幸のサイクルにいるというわけだ。なので、一般的にはイエスだよ。君の遺伝子のが君の幸せの50%を担っているということだ」

「そして10%ほどが単純に、運というか、出来事の数々、君に仕えているエネルギーと言っておくかな、君がそれを受け入れてるなら、そこから来ている。で、残りの40%は集合意識、環境、君の現実、君の現実の受け止め方次第ってところだよ」

「だから君の質問『不幸な家庭に生まれたのは運命か?』に答えるなら、ほとんどの人にとって確率的にイエスだね。ただ、君が立ち止まって、彼らにはもう依存していない、そのことを認識すれば、君が彼らを愛していようと、嫌っていようと、それとは関係なく、君がもう彼らに寄りかかっていないのなら、遺伝子やDNAの中に幸福に関わる要素は無いだろうね。カルマの結果として不幸になる必要はないってことだよ」

「人生のいかなる意味においても、君は自由だ。君には幸福になる自由がある。それは生来の権利だよ。それが魂のやり方だよ。それが君が幸福と呼ぶもの、あるいは、魂が満足した状態にあることの有り様だ。人間が幸福であり、魂が満足であること、そうなるのは君の権利だよ。君がその権利を取り返したなら、もう社会にも、運にさえも、君の家族にだって、君の幸福度を支配することはできないよ。そして君は気付くだろう。幸福はいつもいつもあったのだと。ただそれは家系によって抑圧され、黒く塗られていただけなのだと」

「だからこそ、自分は自立した存在であり何人にも侵され得ない、家族にも先祖にも家系にも跪くことはない、そのこと認識するのが重要なんだ。君は彼らを魂を持つ存在として、彼らが彼らであるがゆえに愛していたとしても、カルマや不幸、病気といったもの、アルコール依存症、鬱、そういった全てのものを、家系を通して受け継いでいくというのは、適切ではないんだよ。だからそれは今」マスターは生徒たちに向かって言いました。「君たち次第ということだ。自分が幸福であると受け入れるかな? あるいは家系的な幸福度数を引き続き使っていくかな?」

彼は深呼吸をして、自分自身の生まれた家庭、そこで成長する中での困難、苦労の数々、騒動やら混乱やらを思い出しました。それらを認識したのはずっと ―彼がマスターになるずっとずっと前のことで― 彼は不幸な家庭が通るだろう道を進んでいました。そして、彼は最も暗い絶望の瞬間に「もう十分だ」そう言いました。彼はそう感じて、彼は自分自身、究極的な彼自身の幸福の追求に向かうようになったのです。

マスターは大きく深呼吸をして、次の質問を待ちました。

リンダ:「マスター、あなたは幸福とは選択であると言っていますか?」

アダマス:「幸福とは受け止め方だよ。幸福は選択だよ、間違いなくね。ただ、それは理屈や根拠で強いることのできない選択だ。そうしようという考え方で出来る選択ではない。そこで為せるのは、幸福とは人間に対する魂からの贈り物であり、それは自分の権利である、そう理解することだね。君たちはその権利をずっとずっと持っていた。だから問題は、君たちが受け入れるかどうか? だね。もっと良い言い方をするならこうだね。君たちは何故、そうであることを受け入れないんだい?」

リンダ:なるほど。

アダマス:「基本的に、そうしない理由として言えるのは、君たちはまだ外部の物事に頼っている ―人や出来事次第だと― そしてまだ、古い人間の目標や願望、そういう古いものをベースにして、自分の幸福の度合い、自分がどのぐらい幸福かを決定している。だからそれが手にできない。手にするのがほとんど不可能なものになっている」

「幸福とは魂から人間への贈り物だ、そのことを理解したなら ―魂には、人間が困難な経験を通り抜けることが分かっていたので、『幸福と呼ばれるものを置いておくよ』と、そうしたわけだ。それは快楽のことではないよ。それとは全くの別物だよ。快楽、快感とは、人間が作り上げた感覚及び感情だからね。幸福とは魂からの贈り物だよ。だからこそ、その準備さえできていれば、君たちの誰もが、受け取るに相応しいということだよ」

マスターは深呼吸をして、コーヒーをすすりました。次の質問を待ちました。

リンダ:「マスター、私には幸せであった記憶があります。ただ総括すると、私は幸せではありません。幸せとは全て、記憶の中にあるものでしょうか?」

アダマス:「多くの人にとっては、そうだね。多くの人は、記憶、思い出の中に幸せを見つけるね。子供のころのことを考えたり、何かの写真を見たり、その写真が撮られた時に思っていたことにさえ、大して幸せではなかったとしても、人々はそれを幸せな思い出として見返すね。実際そこには良くない思い出も、怖かったり酷い記憶もあるけれど、そうだね、総じて幸せな思い出として見ているね」

「幸せな夢というものもある。君が未来のことを考えて、今から5年後とか10年後の未来にどうなっていたいだろうかと夢を見るね。その夢について考えると、君は笑顔になる。全ての困難な変化をスルーして、他の人々の影響もスルーして、そのエネルギーがそこにある、エネルギーがそう君に使えている、そう分かって笑顔になる。それは努力が不要で、且つ芸術的でクリエイティブだ。君は微笑む。ただ、だからといってその瞬間、必ずしも幸福かどうかは分からない」

「実際のところ、ほとんどの人にとって、幸福とは過去か未来にあるものだね。そして今には無いものだ。人々は、この瞬間ただ幸せであることを受け入れない。多くの人がそもそも幸せであることに罪の意識を抱いている。何故なら誰かと自分自身を比較して「他の人たちも、みんな幸せになるまでは、自分だけそうなるわけにはいかない」そう考える。そうでない人たちでもまた、頭で分析したり、何かを心配したり、自分自身を疑ったりして、その瞬間、今という瞬間を忙しくし過ぎていて、すぐ目の前に幸せというギフトが置かれていることに気が付かない。幸福は心配といったものとも同時に在ることが可能なんだ。幸福は悪い日とも共存している。全てはそこにあるんだよ。それは単純に見方、受け止め方、どう見るかの選択の問題だ」

マスターは大きく深呼吸をして、次の質問を待ちました。しかし、生徒たちはマスターの発した言葉の全てを反芻していて、長い間が空きました。マスターは嬉しそうに微笑みました。「良い質問ばかりで、今日はハリール・ジブラーンみたいになってるな」そう思いました。

それから少ししたところで、次の質問が出てきました。

リンダ:「マスター、幸福と平穏であることの違いは何でしょうか?」

アダマス」「うむ」

(間を置く)

マスターは微笑みました。「うむ、ある意味で、その2つは同じだね。何故なら、どちらも衝突、摩擦が無いからね。自分自身を受け入れている時、自分自身との間で折り合いが付いている時、人は平穏でいられるね。内面でも、外側にも、もう戦いは無い、そう認識していることが、平穏であるということだね。たとえそうでないように見えたとしても、全てはあるべき状態になっている、そう理解している時にこそ、平穏であれる。いずれにせよ、全てはあるべき状態にある。それが平穏さを生み出すんだ。そしてその平穏さの中で、人は彼らの生活にある幸福が当然のギフト、贈り物であることを思い出す」

「ギフトがあることを思い出すのは難しいものだよ。自身が平穏でないのであれば、幸福であることは難しい。ただ、全てを受け入れていて、競争も戦いもなく、ドラゴンがかつてそうであったような敵対的なエネルギーではなく、ペットになると、幸福を、ギフトが既にあることを感じるのは遥かに容易だね」

即座に次の質問が出てきました。

リンダ:「マスター! 自己評価と幸福にはどういう関係がありますか?」

アダマス:「うむ」マスターはそう言って、再び「うむ。それ、自己評価と幸福は密接に関係している」と言いました。

「自尊心、自らの存在価値は、自分が自分をどう見ているか次第で決まる。自分に価値はあるのか? ということだね。自分は何者であるか、それを自らどう見ているか、の1つの指標だね。君たちは自分自身を、くもりの無い、綺麗な鏡の中に見ているかな? あるいはヒビだらけ鏡を通して見ているかな? 他者が自分をどう見るか、そうやって見てはいないかな? あるいは、魂の視点から自分を見ることはできているかな?」

「見方が自分の価値のレベルを左右する。そこが幸福とは少し違うところだね。幸福とは、見方ではなく、それは単純に満たされている状態であり、全てを受け入れていて、恵みに満ちた状態であり、自分には幸福である権利があると理解している、そういう状態であることだよ」

「人間がこの惑星で過ごしてきたの同じ期間、程度の差こそあれ、不幸は常にあったわけだね。人間は他者と戦い、それは究極的には自分自身との戦いで、つまり、様々なやり方で自分に途轍もなく多くのものを要求することを続けてきたわけで、そこには幸福も、満たされた状態であることもなかったわけだ」

「人類のストレスは最高潮に達している。彼らの暮らしは忙しい。忙しなく、忙しい。人々は常に何かを達成しようとしているね。彼らは成功をお金やどんな友人がいるか、健康を基盤とするものを成功と結びつけて考えているけど、結局のところ、そういったものが幸福を運んでくるわけではない。それらが幸福をもたらさないことは明白だね。ただただ自分であるというのは難しいものだ」

「ただ、自分には価値がある、自分は相応しい人間だ、全てにおいて罪悪感も恥の感覚も抱く必要がない ―自分はそれに相応しい価値がある― と認識したら、幸福の状態にいることは遥かに容易い」

マスターは深呼吸をして、風の匂いを感じました。彼には、そよ風に乗ってやってくる全員のエネルギーが変わっていることが感じられました。分かりますか、受け取るという意味において、エネルギーの匂いを感じ取るのは簡単なのです。彼は何かが変わっていることを感じていました。そして、大きな変化が起こっている場合の香りは、必ずしも良いものではありません。しかし、通り過ぎていく匂いは、深い変化が起こっていることによる悪臭から、やがては甘い香り、ネクターの、はちみつの、焼きたてのクッキーの香りになるのです。

今度は複数の生徒から出た質問です。

リンダ:「マスター、冒険と挑戦をしながら幸福でいることは可能ですか?」

アダマス:「間違いないね。ただ、人生における挑戦や冒険 ―特に意識して自らが選ぶものでも、単純に起こるものでも― それらによって、幸福と呼ばれるものその全体が雲に覆われてしまうことはあり得るね。それらによって、幸福がすごく離れた場所にあるかに見えたり、全く見えなくなることもある。しかし、突き詰めて言うと、それでも幸福でいることは可能だよ。どの冒険、挑戦にも、たとえそれが困難の数々を強いるものでも、人生に起こる全ての冒険、挑戦を設定したのは自分である、そのことを認識している限り、そこには幸福があるだろうね。たとえその経験が薬物依存になるものでも、ヒマラヤ山脈に登ることでも、そういった経験に深く潜りたいと望んでいるのは自分なんだよ。全て自らがお膳立てしてやっていることだよ」

「そのことを認識していれば、途轍もない困難に見舞われていたとしても、恐ろしい冒険、そういうものの中にあっても、そこで幸福を見つけられる。それは今の仕事を辞める、そう決断するようなこともかもしれないし、そうして新しい事業を始めることかもしれないね。怖いことだね。大きな大きな冒険だ。それでも、その全てをお膳立てしているのは自分であり、歩きたいところ歩き、話したいことを話す、そうするための大きな機会であることが分かっていれば、それは即ち、エネルギーを自身に仕えさせる大きな機会となるということだ。そうだね。緊張、冒険、挑戦の時でさえも、幸福は存在し得るということだね」

マスターは次の質問を待ちました。

リンダ:「マスター、幸福とは思考ですか、あるいは感覚ですか?」

アダマス:「そのとおり! 幸福は思考でもあり得るよ。幸せな思考を指向してみることは可能だね。君たちの多くはそうしようとしているね。君たちの多くが、幸せな考えをすることで自分をなだめようとしているね。しかし、最終的には、それは薄っぺらいものだと気付くと思う。ほぼフェイクと言ってもいい。それらは長くは続かないし、幸せな考えをしばらく続けてみたところで、残念なことに、結局は地面に叩きつけられる自分を見出すね。自分に対してがっかりする。幸福は思考たり得ない、そう言っているわけではない。いずれにせよ、多くの人たちが幸福たる思考を指向している」

「幸福とは結局のところ感覚だよ。ここにはない(頭を指す)、感覚だよ。ここから出てくる(胸を指す)、感覚だよ。魂が満足を感じると言ったけれど、魂は既に満たされていると言ってもいい。人間は往々にしてもっと必要だ、もっと得たい、もっと追求したい、もっと変えたい、もっともっとと感じている。人間は常に、完璧さを、何か別のものを指向している状態にあり、そしてそのことに関して、無力さを感じている。だから、今の瞬間にある幸福を人間が感じるのは、非常に非常に稀だけれど、しかし、それは間違いなく、可能なことだよ」

「それはスピリットからのギフトであり、それを開けるのはこの今だよ。幸せな過去の思い出について考えるのでも、幸福であろう未来を夢見るのでもなく、それを開けるのはたった今、この今だよ」

マスターはそろそろ切り上げたい気持ちになっていました。ドライブへ行きたいと思っていたからです。彼はクラスに向けて言いました。「あといくつか質問を受け付けるよ。次は何だい?」

リンダ:あー、そうね。「私が健康面、経済面で問題を抱えていたとして、それでも幸福でいられますか?」

アダマス:「それだと特に厳しいだろうね。特に健康面で問題があるのなら、幸せでいるのは難しいね。それに、経済的な問題を抱えている人には、容易に分かると思うけれど、それは幸福でいることにとって大きな障害だね。関心の全てが健康や豊かさに向かうせいで、これは繰り返しになるけれど、君たちにそもそも備わっている、ごく自然に幸福であるということが、忘れられてしまう」

「幸福とは、スピリット、魂から与えられたギフトだよ。君たちが多くの興味深い経験をすることが分かっていたから、与えてくれた。『ほら、いつ何時でも戻ってこられる幸せというものを置いておくよ。これはずっとここにある。最悪の嵐に遭った時でも、幸せはいつもそこあるよ。たとえ身体が病に苛まれようとも、経済的な豊かさが思ったように流れ込んでこなくても、ここにある幸福をぜひ見つけてほしいと思ってる。これはいつだってここにある。今は幸福と呼べるような状況じゃない、全ての人がそう言っても、そこの幸せにぜひ戻ってきてほしい。ただ、マインドを使って探しても無駄だよ。ハートを通して戻るんだ』と言ってね。君たちが、そもそも備わっている幸福、幸せのギフトが置かれた場所に戻ると、エネルギーの流れ方が変化する。嵐が美しい砂浜の風に変わるように。

次。

リンダ:「マスター、私は犬を2匹飼っています。ワン!ワン! ペットは幸せになり得ますか?」

アダマス:ふうむ。「その飼い主が幸せならね」

リンダ:ああー。

アダマス:「飼い主が幸せならね。何故なら、分かるかな、ペットというのは反射だからね。ペットは鏡だよ。それが犬でも、猫でも別の種類のペットでも、それは飼い主自身の照り返しだね。ペットは君の抱いている感情を全てすくい上げて、基本的にそれを自らも実践する。だから時にペットは、君のバランスの欠けた部分、不幸を拾い上げて、自分自身のものとして吸収する。時にペットは、君が患っていたかもしれない病気にさえなることもある。それでもペットは幸せか? 究極的に、そして哲学的にも、間違いなくそうだね。何故なら、ペットは、君が君の道に何を置いていようとも、君に仕えるためにいるからだ」

リンダ:ふむ。「マスター、幸福と allowing にはどんな相関がありますか?」

アダマス:うむ。「幸福と allowing には直接の相関性があると言えるだろうね。真の幸福を得るためには、受け入れて委ねることが重要だ。全て受け入れ、委ねることで、真の幸福はもたらされる。両者は手と手を取り合っていると言えるね。両者はまるで、、、」ちなみに、人間の領域で手と手を取り合っているそういうものって何か分かりますか? チョコレートとクッキーですね。「そう、両者は同じものの別部分だよ ― allowing と、間違いなく、幸福はね」

マスターは深呼吸をしました。彼はいよいよ切り上げたい気分になっていました。彼にもすること、行くとこ、会う人といろいろありました。それに、質問自体も、まあ、ネタ切れに差し掛かっていて、あるいは似たようなものの繰り返しになりそうなところへ来ていたこともあります。マスターは深呼吸をして、最後の質問を促しました。

リンダ:「マスター、あなたは幸せですか?」

アダマス:マスターは視線を上げ、もう1度その質問をしろ、そう言うかのごとく目で、その質問をした生徒を見ました。彼はその演技がかった動作をよくしていたので、その場にいた者全員が、彼の視線が上がったことを「質問をもう1度」そう言ったものとして、その言葉を耳にしたことでしょう。

リンダ:「マスター、あなたは幸せですか?」

アダマス:マスターはそこで立ち上がり、深呼吸をしました。「間違いないね(No doubt / 疑いはない)。間違いなくね(No doubt /疑いはない)」

それで彼は立ち去って、所有するビンテージもののポルシェ911に乗り込むと、幸せな気持ちで、沈む夕日へと向けて走り出しました。所有する多くの車の1台を走らせる、その機会を楽しみました。彼は、冒険、道、旅の象徴である車が大好きでした。彼は、道と戦うのでも、道を苦しみながら進むのでもなく、単純に運転を楽しむために、多くの車を所有していました。整備するのが楽しい、多くの古い車を持っていました。どこかへ向かわなければならないわけではなく、ただ、幸福であることを受け入れて、それに身を委ねているだけのことです。

マスターと生徒たちのストーリーはこれでおしまいです。リンダさん、良い質問ばかりだったよ。このストーリーから得るべき教訓は単純です。

No More Doubt(もう疑わない)

誰かが「マスター、あなたは幸せですか? 幸せですか?」とした最後の質問に対して、マスターはこう締めて終わりました。「間違いないね(No doubt/ 疑いはない)。間違いなく、そうだよ(No doubt I am /私には疑いがない)」と。このストーリーで言いたきことはそれなのです。

疑いとは、あなたから幸福を取り上げるものです。疑いです。自分が誰であるかを疑うこと。ここにいる理由を疑うこと。惑星の進んでいく方向を疑うこと。自分の能力を疑い、魂を疑い、マインドを疑って、身体までもを疑うことです。そういった疑いが、ここにある(胸を指す)幸福を奪い去ります。幸福とはあなたに組み込まれているものです。組み込まれていて、それは魂のレベルで人間へと入れ込まれたものだと言えますが、疑いがそれを全く見えなくするのです。感じられなくするのです。疑いがあるせいで、幸福を経験することは非常に非常に、極めて稀なことになるのです。

マスターは「私には疑いがない(No doubt I am /間違いなく、そうだよ)」と言いました。分かりますか、彼は疑いを手放すことを習得して、長い時間を過ごしています。彼は疑いを手放し、そうして満たされた感覚、幸福感が彼に戻って、実際に彼は、それこそが自然な状態であると認識したのです。

そこに至るまで、マスターもまた、人生で数々の困難に出くわしています。10代のころは始末に負えない若者で、多くのトラブルに巻き込まれて、何度となく間違った道を進みました。彼は特別な子供でもなんでもなく、みなさんの多くと同じでした。彼は多くの衝突、困難を経験し、多くの傷を負いました ―精神的にも肉体的にもです― 経験を証明するものとして傷を負ったのです。しかし彼がその道に達し、あなたが今いるところと同じ場所に着いた時に、教師が彼に言ったのです。「疑わないことだ。もう疑いを持ってはいけない」と。

その時のマスターはこう思いました。「なるほど。疑いはなしか。聞こえだけは良いようだ。でも、ただ深呼吸をして疑いを全部手放すなんて、人間には難しい。人間は様々なレベルにおいて、疑うようになっている」

その人間はマスターに質問しました。「なら、どうやれば疑いをやめられるのですか? どうこの疑い、あの疑い、その疑いにも、対処すればいいんでしょうか?」と。彼のマスターは厳しい目で彼を見て、言いました。「君にはもう、疑っていられるような余裕はないと思うがね。もうそんな贅沢をしている場合ではない」と。

その言葉はマスターの心を打ちました ―もうそんな贅沢をしている場合ではない― それを聞いて最初、彼は彼のマスターに向かって叫ぼうとしました。「贅沢とはどういう意味でしょうか? 全く好きではありませんが」と。しかし彼には分かりました。突然、その意味が分かったのです。彼は自分に対して、疑いをたらふく与えていたのです。

それは彼自身がのめり込んでやっていたゲームでした。古い、古い、疑いのゲームです。疑いは、対決したり、戦ったり、そこへ入ったり、自身の内面に少しでも疑いが残っていないかと探そうとする対象、そういうものではないのです。あなたにはただ、もうそんな贅沢は出来ないと分かります。それは一定程度、あなたに仕えました。疑いはあなたに、物事に、とりわけ自分自身に対して、あれこれ質問させるよう仕向けてきました。疑いは、ある地点まで、それが自分自身をひどく斬りつけるまでは、あなたの剣を鋭くさせる助けをしてきました。疑いは鏡の役目を果たしましたが、それは酷くヒビ割れた鏡でした。

もう自分自身を疑っていられるような贅沢はできません。先へ進む時です。

自分が本当にリアライゼーションのためにここにいるかを、疑うのをやめる時です。やるかやらないかだけの話です。

自分が賢いのか阿呆なのかと、疑うのをやめる時です。

自分が他の人と同じように善良なのか、価値があるのかと疑うのをやめる時です。

今がリアライゼーションへ至る時かと疑うのをやめる時です。

あなたは、もうそんな贅沢、何かを無駄にすることはできません。疑いはもう、ただ手放して、そのゲームをやめるかどうかだけの問題です。それを手放すか、道から降りるか、どこか違う場所へ戻っていくかだけの話です。

さあ、今日という、そうですね、幸福の日に、大きく、深呼吸をしましょう。分かりますか、疑いは幸福を破壊します。間違いなく、幸福を壊します。あなたにはあなたの人生で幸せでいる権利があるのです。これは哲学的な議論では、全くありません。あなたには幸せでいる権利があり、マスターを体現する者として惑星に留まるためには、その幸せになる権利をとっとと行使する必要があるのです。

Merabh of Happiness(幸福のミラーブ)

さあ、今日の幸福のミラーブに入るにあたって、深呼吸をしましょう。

大きく、ゆっくりと深呼吸をしてください。

(音楽、流れる)

人間はあらゆる種類の疑いで満ち満ちています。朝起きた瞬間から、日中を通して、そして夢を見ている状態まで、ずっとそうです。疑いに次ぐ疑いに次ぐ疑いです。

一定程度であれば、疑いはその目的に仕えています。より自分自身について理解すること、真の自分とはどういう者かを理解をする、その助けとして機能します。しかしある地点を超えると、あなたにとって良いこと無しです。とっとと手放さなければなりません。

もう疑いはなしにしましょう。実際それは、言うは易しで、言うとやるとでは違いますが、それを考えていることで幸せを無駄にする、そんな贅沢は、もったいないことはやめてください。あなたが今いるところで、するようなことではないのです。

疑いはあなたを引き裂きます。疑いは、あなたが本当は誰であるかを理解させないままにします。何故あなたがここにいるかを思い出せないままにします。

疑いはあなたのパッションを締め付けます(誰かがくしゃみをする)。お大事に。

疑いはあなたを疲弊させます。あなたの身体を病ませます。マインドの活動を低下させます。当然、あなたの気付きも低下します。

疑いと戦うことはできません。別の疑いが増えるだけです。あなたは疑いと戦うことで、出てくる結果でさえも疑います。疑いと戦って勝つことはできません。

疑いを魅了するのも無理ですね。疑いに取り入ろうと「疑いさん、お互い、上手くやっていこうじゃないか。私はとてもいい人だよ。自分をたくさん疑うだけで、本当に善良な人間なんだ」そう言っても、疑いに取り入ることはできません。

本当に本当に、疑いとは、相談してなんとかなる、分かりますか、カウンセリングを受けにいったところで、どうにかなるものではない、私にはそういうものに感じられます。実際、あなたはカウンセラーのところでイスかソファに腰掛けている自分自身を疑うものと思います。つまり、疑いがなければそもそもあなたはそこにいなかったわけで、しかしそこにいるということが、あなたが抱える疑いの全てを強化することになるからです。疑いというものが、その時に戻ることで、人生であったトラウマ的な瞬間へ戻ることで、解消されるとも思いません。実際、私は、それをした人はそうしたことでさらに自分を疑うようになると確信しています。

疑いとはゲームです。悪魔のゲームです。

疑いはどこまでもどこまでも深まります。疑いはマインドへ入り、そしてハートにも入ります。疑いは人間関係にも、何にでも染み込みます。疑いは経済面にも、職業面にも染み込みます。

そして疑いは ―あなたがあなたの旅路においてここに至り、マスターを体現する者としてここに留まるこの段では、率直に言わせてもらいますが― もう自分を疑っているような余裕はないんですよ。それだけです。そのぐらい単純なことです。シンプルな話です。あなたにはもう、ただ自分を疑って済むような、遊びは残されていないのです。

あなたはやろうとするでしょうね。私には分かります。あなたはしようとするでしょう。あー、来月は興味深い月になるでしょうね。あなたは私に対してたくさん腹を立てるでしょうし、私が唾を吐きつけたくなるほど、疑いや幸福に関してうんざりするほど哲学するでしょう。

来月、あなたは実際に疑いのゲームを激しくプレーしていることと思います。何故なら、あなたは確信できないでいて ―えっと、それはあなたが私がここで言っていることを疑っているからです。そしてそれが、ある地点で「くそっ、アダマスは正しかった。もう疑って遊んでいられるような状況じゃなかった」そう認識されるものになるでしょう。

疑いとは、感情と頭でする一人遊びのゲームです。疑いがあなたを人間のままにしています。疑いがあなたを小さく小さくしています。あなたを失われたままにしています。あなたはこう言うでしょう。「私にこのゲームを手放せますか? 本当にそうできますか?」と。

そんな疑いめいた質問の仕方をしないでください。はい、あなたは苦もなく、そこを超えて歩いていけます。もう疑いはありません。

あなたは次のことと向き合います。あなたは疑いを自己査定のツールとしていつも使っているということ。リスクを回避するため、物事が爆発してメチャクチャにならないよう、そうしていること。大きなパッションを感じている時でさえも、あなたが自分を疑ったこと。あなたは疑い、目立つことを恐れてきたこと。違っていることを恐れてきたこと。間違っている、かもしれない、ことを恐れてきたこと。

あなたはあなた自身を疑っていました。だから小さく、本当に小さく収まるようにしたのです。もうやめましょう。それはもう終わりです。

私たちは、かつてマキョ―に、スピリチュアルなクソ、スピリチュアルな気逸らしに対してそうしたように、次のギャザリングでは、疑いについてさらに話します。ただ ―疑いについて、ある言葉を用意しています。その言葉を使っていくことになりますが― 疑いはなしにしてください。疑いはなしです。疑いのための場所はありませんよ。あなたにも、他のシャーンブラだってそうですよ。

疑いという、そんな予防線を張っておく必要はもうないのです。そんなダブルチェックをする必要などないのです。疑いが成立させるそんな確証なんか要りません。マインドに対しても、思考に対しても、行動に対しても、ダブルチェックなんか要りません。その疑いなしでやることに対して、あなたが何に直面するか分かりますよ。「じゃあ何が自分を正しい場所にいさせるんだろう? 常識の範疇にいられるのかな? 狂った行動をしないでいられるだろうか? 物事を、自分がやることを疑わないでいて、ぶっ飛んだ、それこそクレージーなことをしてしまったらどうしよう?」です。

違います。違いますよ。あなたは自分を疑うことによって、小さく生きることによって、全ての瞬間を幸せでいないことによって、クレージーなことをしています。それこそ狂っているのです。

さあ、今日という日に、大きく深呼吸をしましょう。

生徒がマスターに「マスター、あなたは幸せですか?」そう質問した時、マスターはこう答えたのです。「私には疑いが全くないんだ」

それは彼なりに「そうだよ。私は自分を疑っていないから、私は幸せだ。私は私である全て。私はずいぶん前にゲームを降りたんでね、幸せなんだよ。幸せでいられるんだよ。疑いは人殺しだよ。レイプ犯だよ。泥棒だよ。もう私の人生から消えろ、私はシンプルにそう告げたんだよ」こう言ったものなのです。

マスターは今、アンティークの真っ赤なポルシェ911で開けた道を走っています。道を滑るように走っています。先ほどのギャザリングの美しさ、そして次のギャザリングまで、はっきりとした答えを出さないままにしたことの満足から、顔には笑みが浮かんでいます。

どこまでも広がる視界の中、道はどこまでも続いています。他に走っている車は見当たりません。夕日が沈み始めています。彼は大きく深呼吸をして言いました。「全ての創造において、全ては正しい。私はくっそ幸せ者だ」

というところでシャーンブラのみなさん、観客なしでもやれることはやれますが(アダマス、笑う)みなさんに会いたいですね。

何人にも侵され得ない領域、アダマスでした。

翻訳: Ito Satoshi


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